学史上の時期区分

 1974年に刊行された(訳本が出たのは5年後の79年)、ウィリーとサブロフの『考古学史』は、考古学史を次のように時期区分している。

  1. 推測期(1492〜1840年)
  2. 分類=記述期(1840〜1914年) 考古資料の記述と初歩的分類
  3. 分類=歴史期 – 編年への関心(1914〜1940年)
  4. 分類=歴史期 – 脈絡と機能への関心(1940〜1960年)
  5. 説明期(1960年以降)

 二人によれば、1の流れは1840年頃に盛期を迎え、1960年頃には衰滅。2の流れは1914年頃に盛期を迎え、やはり1960年頃には衰滅。これに対して3は1900年頃に兆しを見せ、1914年から顕著となり、1960年頃に盛期を迎え、(1974年段階で)衰退の傾向にあるものの、考古学の主流を占める。いっぽう4は、1940年頃に兆しを見せ、1960年頃を境に少しずつ拡大の兆しがあるが、(1974年段階では)主流となりえていない、という時期となる。
 二人の学史認識で大きな区切りとなる1914年は、言うまでもなく第一次大戦が勃発した時期である。二人は明確に大戦の勃発が、アメリカ考古学の第三の時期の発端を成すと言い切っている。いっぽうもう一つの区切りの1940年であるが、これも1939年に始まった第二次世界大戦を明確に意識しているといえよう。日本の学者なら、間違いなく1945年にその区切りを持って行くはずだ。この5年間の認識の差は、以外に大きいと思う。
 35年前の時期区分であるから、二人が今日から見返せば、変えたいかもしれない。いや、あまり変わらない、というのかもしれない。一方、日本考古学にもこの時期区分の枠組みを当てはめたらどうなるだろう。
 
 

進化的編年パラダイムが残るのは日本考古学のみ?

 たとえばアメリカ考古学では、進化論的パラダイムは、次のように学史の中の存在である。

セリエーションのもっとも簡単な定義は、現象ないし資料を、ある一貫した整理原則によって配列することである。考古学でいうセリエーションとは、資料を時間順に配列することである。(ウィリー/サブロフ、小谷訳『アメリカ考古学史』1979年、148頁)

考古学におけるもっとも有名な進化的セリエーションの最初の実例は、トムセンによるデンマーク国立博物館の資料の配列で、その地方の文化は石器時代文化、青銅器時代文化、鉄器時代文化の順に発展したという仮定に基づくものであった。この場合、その後に実施された考古学的調査によって、このセリエーションの正しさが繰り返し立証された。しかし、他の進化的セリエーションは、層位的検証ないし絶対年代の吟味により否定されたものもあることから、セリエーションにおける進化の原理は、確立された考古学的手続きとして妥当なものとはみなされていない。いっぽう、類似に基づくセリエーションによって得られる結論は、この方法が正しく適用された場合、一様に信用され、層位学や絶対年代決定法によりその妥当性が確認されている。その結果、類似に基づくセリエーションの原理は、アメリカおよびそれ以外でも編年体系を確立するために広く受け入れられており、事実、今日用いられている「セリエーション」という語は、類似に基づくセリエーションのことをいう。(ウィリー/サブロフ、小谷訳『アメリカ考古学史』1979年、151頁)

T島氏への期待

取り敢えず、日本列島の刀剣に関しては制覇したのではないかと思う(細かいことを言い出したら切りがない。いちいち真面目にやっていたら(面白いかもそいれないが)永遠に終わらないから、あとはやり方だけ人に教えて、後進に託せば良い)。
いずれにしても、BBB研究者すなわち、武器・武具・馬具の分析に関わっている者としては、もう日本の武器はとりあえずいいから(やれば面白いのは分かっている)、T島氏には、半島さらに大陸方面の刀剣について、あの精細にして拘った分析を加えて欲しい。そうすると、きわめてダイナミックに、歴史認識まで変化するインパクトがあるんじゃなかろうか。

TK47/MT15の断層を考える

今度の研究会は是非、齊藤大輔氏にも参加してほしいなと思うのは、考古学のハイアラキーとしては、あるマイナーな内輪の勉強会。9月中に予定している。
例のはばきもとに孔の開いた大刀の編年、それが一型式古いかどうか、だけの矮小な問題には、実は収まらない、わくわくする問題を孕んでいる。
極東地域の武装システムが、なにかの区切りに激しく変化する。その動きを、どう捉え、どう合理的に説明するのか。問題はそこにある。考古学が、文献史学を、時に凌駕する。それを予測しての、この興奮を、分かち合えるのは誰か。

環状鏡板の大分類

 環状鏡板とは、鏡板本体を成す環に連結された銜が、(立聞部を除き)環の全周を遊動できる構造の鏡板である。
 いっぽう、いわゆる複環式環状鏡板では、特定の部位(一般に鏡板の中央付近)に銜が連結され、環部を遊動する造りとはなっていない。この点で、一般的な鏡板と同様の構造と機能を有すると見てよく、環状鏡板というカテゴリーに括ることには問題がある。かつて『日本古代文化研究』で行った分類には修正が必要だ。
 さて、環状鏡板の分類の決め手となるのが、立聞の構造である。その大枠については、『日本古代文化研究』で示した分類に大きな修正は必要ない。
 ところで、環状鏡板の中でも最も一般的なのが、矩形立聞造環状鏡板である。この種の鏡板を、人によっては、長方形立聞付鏡板とか、板状立聞付環状鏡板と呼ぶ。名称をめぐるこうした不統一は、先学が命名した用語のプライオリティーを無視した結果生じる現象で、どんな理屈に基づくにせよ、感心できることではない。たとえば考古学がお手本にしてきた生物分類学の世界では、一度与えられた種や属などの名称(タクソン名)を変更することには厳しい制限があり、よほどのことがない限り変更できない。変更する場合には、決められた面倒な手続きと審議を経て、学会内のコンセンサスを得る必要がある。この点に関して、考古学研究者はあまりに安易である。

分類の基本単位

 図は七世紀の、詳しくいうとTK217型式平行期の轡である。群馬県奥原25号墳出土品の実測図をもとに製作した立体的な模式図だ。鉸具(カコ:Buckle)が造り付けられた鏡板(CheekPiece)の特徴から、鉸具造環状鏡板付轡という名称を与えることができる。
 この轡に限らず、轡は鏡板の特徴を主要な基準に分類されることが多い。というのも、轡の部品の中で一般に最も多様な形態や構造を持つのが鏡板だからである。別の言葉でいえば情報量が多い。
 さて、轡というのは馬具の1部品に過ぎず、これだけでは乗馬できない。馬の頭部に轡を装着するための面繋(おもがい)が必要だし(これも一般に複数の部品から成り立っている)、馬を操るための手綱も必要である。もちろん、鞍も(それを馬に装着する諸部品も)、鐙も欠かせない。
 したがって本来なら、馬具を構成する部品全体を俎上に議論すべきだが、目立つ部品だし、(面繋の有機質が失われて)主立った部品としてはこれしか出土しないことも多いので、轡は便宜的に一つの独立した研究対象とされることが多い。またそれで十分有効に研究の成果が上がってきた。もちろん、たとえば宮代栄一氏の研究に代表されるように、馬具装着状況全体を問題にした研究も、そうした「部分的」な研究成果をもとに進められている。
 つまり、馬具の編年研究は、部品の研究の寄せ集めというと聞こえが悪ければ、部分的研究を総合することによって成り立っている。研究対象となる部分は便宜的に全体から切り取られ(分類され)、それにいわゆる型式名が付与されている。このように考えれば、少なくとも馬具研究において、型式が生物学における種に対応する概念ないし範疇となはりえないことが、よく理解されるであろう。馬具に限らず、武器や武具の型式についても同じことがいえる。生物学的な意味において、型式の特徴は遺伝しないし、もちろん同じ意味において、型式は進化しない。人が人為的に設定ないし認識した型式は、自らを自己複製することはないし、自己複製するための遺伝子を持つこともない。
 

まずは生物分類学的アナロジーの脱却から

 現在の考古学において、型式学(学と呼んでよいかどうかはともかく)がその出発点から躓いてしまう原因が、生物分類学的アナロジーの枠組みである。生物分類の最も基本的な単位は種であるが、当然のことながら、考古学にはそれと比較できるカテゴリー(範疇)などあり得ない。にも関わらず、「型式」を暗黙のうちに種に見立てて、議論を展開して平然としている。生物を詳しく分類して行くと種に行き着くが、同じように土器を詳しく分類していくと型式に行き着くと信じている。もちろん、そんなことはあり得ない。
 と言ってしまうのは簡単だが、上記のような考え違いを自覚していない多くの考古学「研究者」を相手に、生物分類学的アナロジーの誤りを彼らが納得できるように説明し、さらにそれに代わる対象に即した(オブジェクト指向方法論に基づく)分類方法を、彼らが理解し、受け入れやすいように説明するのは、なかなかに至難の業である。「中尾佐助の『分類の発想』くらい読んどけ!」で済ますわけには行かないだろうから厄介だ。皆、自信満々、一家言の持ち主だしね。

近々の目論み

 武器・武具・馬具の分類に関しては、以前発表した「進化論的年代論の進化論」の中で、水野敏典による鉄鏃の分類こそが、生物分類学的パラダイムの呪縛から完全に解放された、方法論上の到達点であり、情報科学の用語を使えば、オブジェクト指向方法論に基づく分類なのだ、ということを示した。しかし、武器研会場で発表を聞いた穴沢和光氏がコメントした通り、文系研究者には、少々難解であったかもしれない。
 というわけで、馬具を中心に、武器も含めていくつかの分類対象を取り上げ、それぞれの分類を具体的に解説しつつ、考古学的オブジェクト指向方法論(まあこの名称にはもう少し工夫が必要だと思うけれど)を整理しておこうと考えている。土器の世界は魔界だから、こうしたプラグマティックな方法論は通用しないだろうが(「プラズマティック」じゃないからね、念のため)、武器・武具・馬具に関しては十分に有効であろう。
 次に、そうした分類を基礎に、私のいう「考古学的帰納法」を用いて、型式学的な序列を、いかに類型的に組み立てて行くか、というプロセスを、やはりいくつかの分析対象を取りあげて、具体的に分かりやすく定式化しておこうと考えている。こういう言葉には脊髄反射的に拒否反応する人たちがいるのを承知で、というか挑発を兼ねて言えば、型式学的編年のマニュアル化である。『サルでも分かる馬具編年の方法』なんて題はどうだろう。
 最後に、武器・武具・馬具を貫いた、複合的類型的な年代型の導き方を、これまた具体例を示しつつ定式化して、これまでにやってきた型式学的編年論の総決算とするつもりだ。

研究主体の自己限定


 人間は誰しも等しく理性を持っているので、完全情報が与えられているなら、その理性に基づいて共通の結論に至るはずだと考えるのが、フランス革命の際に議長席から見て左側に座っていた人々、すなわち左翼の考えである。人知によって、すなわち人間の理性に基づいて、理想的な社会や国家を建設できるという信念が根幹にある。これに対して、人間の理性には自ずと限界があると考えるのが、フランス革命の際に議長席から見て右側に座っていた人々、すなわち右翼である。理性を否定するわけではないが、人知の至らぬことがあることを認めるのが右翼である。
 以上のような佐藤優の定義(2009『国家の神髄』産経新聞社)に基づくならば、現在の私は正真正銘の右翼である。若き日には、科学の卓越性、理性の勝利を信じて疑わない筋金入りの左翼であったし、今日においても、その時に血肉化した左翼的思考回路の呪縛から逃れられないでいるが、しかし意識的にそれを回避するように努力しているし、時には露悪的に右翼であることを顕示することもある。戦後左翼思想のぬるま湯のなかで、まさに茹でガエル状態の考古学界が気持ち悪いからである。
 とはいえ、このブログに純粋な考古学上の議論を求める読者には、そうした反左翼指向の言説が、単に邪魔なだけになっている場合もあるだろう(面白がってくださる読者も少なくないが)。というわけで、既にお気づきの方も多いと思うが、本ブログの内容を、(某朝日新聞のように真っ白に)政治性を排除した、いわゆるアカデミックな議論に限定する方向に、しばらく前から方向転換した。
 なお、戦後左翼思想的ぬるま湯考古学に対する批判その他の言いたい放題は、新しいブログサイトで行う予定で、準備も整っている。
 ちなみに、写真は昨日横浜で執り行なわれた、長男の結婚披露宴における、第1種夏礼装と和服の組み合わせ。こうした写真も、今後は新しいブログサイトに掲載していくつもりなので、この場では最後となる。

馬具の型式学的編年

 何だかんだと忙しく、いっぽうで身内の慶事に振り回されたことなどもあって、しばらく研究から遠ざかっていた(まあ、今に始まったことではないが)。忙しさ、気忙しさの原因の一つに明日で決着がつくのを機に、巻き返しを図ろうと考えている。疎遠になっていた馬具の型式学的編年について、反省的な取り組みを試みるつもりだ。19世紀の俗流進化論から自由な、方法論上の枠組みを整理してみようと思う。といっても、馬具編年に関しては、その大綱が既にほぼ整備されているので(1996内山)、編年そのものに大きな変更を加える必要はない。問題にするのは、どうやってその編年に辿り着くかというプロセスと、編年結果の表現方法。分類についても、生物分類学の呪縛から自由な方法を整備する予定。以上のドラフトを次回の「帝文研」で発表し、その反応を見て今後の組み立てを考える。

内山編年(1996)

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津野 仁「古代弓の系譜と展開」

 『日本考古学』第29号に研究ノートとして掲載された論文。膨大な資料に基づく考察は実に興味深い。が、長弓を葬送儀礼用、短弓を狩猟ないし戦闘用の実用品とする、前々からの氏の解釈ないし分類には、いささか疑問がある。これまでにも述べたが、儀仗用と実用という二項対立の図式には限界がある。それ以上に、系譜を問題にしながら、日本の武器史における弓の系譜を無視しているように思える。近いうちに書評を書きたい。ひさびさに面白い論争になると思う。

革命的軍事改革とは【再録】

2004年12月にWebSiteに公開した雑文。一部協会発表要旨と内容が重複している。


はじめに

 西洋史学や軍事史学の分野で用いられている概念に、軍事革命あるいはRMA:革命的軍事改革という考え方があり、軍事にかかわる歴史的な問題の研究を深化拡大させるのに役立っている。これらの概念の導入は、まちがいなく考古学にも有効であると思われる。
そこで、主に考古学研究者を対象に、それらがどんな概念であるか簡単な紹介を試みよう、というのが本論の目的である。
なお、本論は今村伸哉訳、マクレーガー・ノックス/ウィリアムソン・マーレー著『軍事革命とRMAの戦略史 ー 軍事革命の史的変遷』(2004年、芙蓉書房出版)に依るところが大きい。大部分はそれからの引用または要約である。予めお断りするとともに、原本を一読することをお勧めする。

1. 研究小史

 「軍事革命」の概念は、1955年にスウェーデン近世史の研究者、イギリスのマイケル・ロバーツが、クィーンズ大学教授就任講義で初めて主張した。その主旨は以下の通りである。

 近世ヨーロッパで起きた最も重要な歴史現象が、オランダのマウリッツが開発し、スウェーデンの軍事王グスタフ・アドルフが発展させた戦術および軍制改革である。この革命的軍事改革が、近代ヨーロッパ列強が世界に発展する原動力と進路を決定的に運命づけたからである。その歴史的重要性に鑑み、これを「軍事革命」と呼ぶ。この革命の完遂はヨーロッパ史に巨大な影響を及ぼし、中世社会と近代社会を分つ分水嶺となった。

 このロバーツの主張は、西洋史研究の分野で長く激しい論争を経た後に、基本的に受け入れられた。いっぽう軍事史研究の分野では、他の時代に研究者の目が向いており、1990年代に入るまで、その考えが関心を惹くことはなかった。
 1970年代の米軍のめざましい新技術 ー 精密誘導弾、巡航ミサイル、ステルスなどの開発は、ソ連軍の軍事思想家に深刻な危機感を抱かせ、これを「軍事技術革命」(Military-technical Revolution)として認知させた。米国防総省にあってこの概念の重要性に気づき、純技術的な側面より軍事原則の面を重視した「革命的軍事改革」すなわちRMA(Revolution in Military Affairs)の概念として発展させたのがアンドルー・マーシャルである。1980年代中頃から90年代初頭にかけて、RMAは米国内の防衛コミュニティーに認知されていった。
 その後、RMAを受け入れた国防総省の指導者層は、マーシャルの意に反して歴史的アプローチで未来を予測しようとする方向に向かわず、巨額の予算を要する兵器装備の直接的利害にかかわる紛糾へと向かった。いっぽう、歴史研究の分野では、17世紀以前のRMAの事例にも目が向けられ始め、軍事革命とRMAの区別と関係も整理されて、研究が深化拡大して今日に至っている。

2.プランタジネット朝のRMA

 エドワード3世(1327-77)の時代、イギリスは劇的な革命的軍事改革(RMA)を達成した。まずはじめに分かりやすい具体例として、この14世紀イギリスのRMAを紹介する。

RMA前夜

 エドワード3世の父、エドワード2世の時代、イギリス兵2名は1人の弱いスコットランド兵に敵わなかった。フランチェスコ・ペトラルカによれば「私の青春時代、イギリス人は、……イタリア人を除いて最も勇気のない国民である」と思われていた。その戦いぶりは次のようなものであった。

バノックバーンの戦闘
1314年、スコットランド王を称するロバート・ブルースが重騎兵1500、歩兵40000を投入してイングランドの支配するスターリングを包囲した。エドワード2世はその守備兵を救出するため、重騎兵5000、軽騎兵10000余、弓兵20000、歩兵25000を含む少なくとも60000の兵力で出撃した。6月23日、ブルースはバノックバーン後方のなだらかな丘陵に主力を配置、主陣地前方に落とし穴を作りイングランド軍の攻撃を待った。翌24日、イングランド軍重騎兵が蝟集して敵正面に数次にわたって突撃を敢行したが次第に混乱に陥った。いっぽう弓兵も十分に展開できず、味方後方から射撃したが敵よりも味方を撃つ結果となった。最後はイギリス軍が総崩れとなって退却、少なくとも15000が戦死した。対するスコットランドの損害は4000だった。

ダプリン・ムーア以後

 ところが、エドワード2世を継いだエドワード3世(エドワード高貴王)の代になると「100人のフランス兵部隊は、20人のイギリス兵と対峙することも戦いを挑むことも望み得ない」という状態になった。以下、エドワード3世とその後継者の主要な戦闘の概要を示す。

ダプリン・ムーアの戦闘
1332年8月、エドワード3世指揮する騎士と重騎兵1000、弓兵1500はスコットランドに侵入、重騎兵2000、歩兵20000という10倍近い敵とダプリン・ムーアで衝突し、これを一方的に撃破した。スコットランド側は、摂政、スコットランド伯5名のうちの4名、そして兵3000が戦死した。
ハリドン・ヒルの戦闘
1333年7月、イングランド軍は倍するスコットランド軍と衝突、新たなスコットランド摂政、新たな伯爵4名、1000以上の兵士を倒し、これを撃破した。
スロイスの海戦
1340年6月、イングランド艦隊150隻とフランス艦隊190隻がスロイス港入り口で交戦、フランス軍は166隻を撃沈または捕獲され、殲滅された。
クレーシーの戦い
1346年7月、エドワード3世は騎士と重騎兵3000、イングランド弓兵10000、ウェールズ軽歩兵4000を率いてフランスに侵攻した。対するフィリップ6世は60000の大軍を率いてこれを迎撃しようとした。エドワード3世は危険を察知、フランドルへの撤退を開始するが、ソンム川を渡河した地点でフランス軍に追いつかれる。8月26日、エドワード3世はクレーシー森側の良好な地形に布陣した。夕刻6時、フランス軍重騎兵がこれに殺到するやイングランド長弓兵が一斉射撃で応戦、フランス軍はボヘミア王はじめ10000〜20000の死傷者を出して敗走した。
ポアティエの戦闘
イングランド軍はクレーシーの大勝の翌年カレーを占領、1355年に戦闘が再開した。エドワード3世の第一王子黒太子がイングランド軍を指揮、ボルドー地方、ついでオルレアン方面からロワール川流域を蹂躙した。フランス王ジャンが20000の兵を率いてオルレアンに向かうと、黒太子は7000の兵をもってボアティエに布陣した。56年9月16日、フランス軍重騎兵が突撃を敢行するがイングランド弓兵がこれを阻止、次いで黒太子が突撃を繰り返しフランス軍を撃破した。フランス軍は2500が戦死、ジャン王以下2600が捕虜となった。
ナジェラの戦闘
カスティリャの王位をめぐりイングランドとフランスが介入した。1367年、ボルドーを拠点としていた黒太子は、カスティリャの残酷王ペドロの要請を受け、重・軽騎兵10000、傭兵10000を率いてピレーネを越え、フランス軍が支援するアンリー軍とエブロ川流域で相対、重騎兵5500、軽騎兵4000、弩兵6000、歩兵20000からなるフランス・カスティリア連合軍と交戦、指揮官のデュ・ゲクラン将軍を捕え、7000を戦死させた。
アザンクールの戦い
ヘンリ−5世率いるイングランド軍が大陸に上陸、重騎兵800、弓兵8000をもって進軍。1415年10月25日、シャルル・ダルブレ率いる30000以上のフランス軍がアザンクールでこれに衝突した。戦闘の結果、フランス軍は少なくとも5000以上が戦死、1000が捕虜となった。イギリス軍の戦死は100余だった。

 一連の圧倒的勝利は、イングランドにフランスの三分の一余の領地をもたらし、自己が支持するペドロ残酷王のカスティリア王朝復位を実現させるなど、「まったく新しい太陽が昇ったように思える」栄光をもたらした。

テクノロジー

 14世紀イギリスのRMAの明確なテクノロジー構成要素はイチイ材の長弓である。近年の研究から、甲冑部隊に対しても致命的な効果を有する武器であったことが明らかにされている。当時の弩の少なくとも3倍の初速を持ち、遠く正確に発射でき、甲冑を突き抜けて人馬に致命傷または重傷を負わせる打撃を与えられた。1333年のハリドン・ヒルの戦いでは、この長弓に何千ものスコットランド兵が射倒されたという。
 しかし留意しなければならないのは、長弓はイングランド国王軍にとって、新しいテクノロジーではなかった点である。
 1314年、バノックバーンの戦闘で、スコットランド王ブルース・ロバートによって撃破されたエドワード2世の部隊の大部分は、長弓兵が占めていた。イギリス軍はスコットランド兵に対し圧倒的に数で勝り、最も良く装備された遠征軍であったにもかかわらず、敗北した。つまり、エドワード2世は、明らかに長弓を採用していたにもかかわらず、RMAを生み出せなかったのである。
 では、1314年のパノックバーンの大敗北から、1332年のダプリン・ムーアにおける大勝利までの20年弱の間に、プランタジネット朝陸軍には他にどのような装備の変化が認められるのであろうか。この点については、2つの変化が注目される。すなわち、火器の導入と、重装騎兵の装甲および軍馬の改良である。
 1327年、エドワード3世はヨーロッパで初めて砲兵を投入し、その後の生涯も砲兵技術の最先端にいた。クレーシーでは大砲が初めて野戦で使われた可能性がある。1346〜7年のカレー攻城戦では、10門の火砲が用意された。
 イギリス騎兵は、エドワード3世当時ヨーロッパで最良の装備を有していた。また当時のイギリスの軍馬は、「エドワード王時代様式の馬飼育革命」と称されるほど改良が進んでいた。
 以上の事実にもかかわらず、火器や騎兵の装備および軍馬の優位性は、戦闘においてさして重要な意味を持たなかった。というのも、大砲は騒音が印象的なだけで、まだ重要な兵器となってはいなかったからである。クレーシの戦いでは数人のイタリア人を脅かしたかもしれないが、大砲が野戦に影響を与えたのはずっと後のことであった。また、イギリス重騎兵はほとんど例外なく戦闘では下馬し、勝利した後に追撃する時に限って乗馬したので、馬匹の改良はあまり戦況に影響を与えなかった。騎兵の装備の改良もイギリスの勝利に明確に寄与することはなかった。フランス軍もまた同様の板金甲冑を装着していたからである。
 つまりエドワード3世のRMAの間、戦争の物質文化の変化は、全く決定的ではなかった。テクノロジーは重要な補助要素であったが、1330年代から50年代にかけて、イギリスの軍事的効果に見られる素晴らしい発展に比べれば、技術的には進歩していなかった。

組織

 イギリス陸軍は、バノックバーンの屈辱的大敗北から百年戦争の間の10年間に、重要な組織的、構造的、行政的な変化を遂げていた。エドワード2世のそれは、まだ部分的に封建的性格をとどめていたが、少なくとも1334年以降の募兵以降、エドワード3世の軍勢の全勢力は王から賃金支給を受ける兵士から構成されていた。
 対フランス戦争がプランタジネット朝にもたらす巨大な利益は、兵士に対して十二分な給金を支払うことを可能にし、エドワードの軍事遠征に参加することは兵士にとって極めて魅力的なものとなった。略奪の機会も含めて、軍務は煩わしい職務ではなく、兵士に取って望ましい好機に変化していた。

戦術

 バノックバーンで壊滅的敗北を蒙ったイギリス軍は、陸戦の考えを転換し、エドワード2世の終わり頃には、騎士でさえも下馬して歩兵として戦うべきであるということを広く受け入れるようになっていた。騎馬は、追撃のための予備的役割を与えられた。
 エドワード3世が自身で指揮した最初の2回の戦いでは、歩兵のような長槍を装備した重騎兵が下馬して中央阻止部隊として密集体形を形成し、その両翼のそれぞれ斜め前方に2群の弓兵隊を配置して、中央阻止部隊を攻撃する敵部隊の正面と側面に対して射撃しつつ側面を守るという戦闘態勢で戦い、異例なほどの成功をおさめた。こののち1世紀以上の間、イギリス軍はこの戦術システム ー 「ダプリン戦術」に固執し、それによって度重なる勝利をおさめることができた。

戦略

 「ダプリン戦術」は次々に敵を撃破することに成功したが、正面攻撃を慎重に控える軍に対しては効果がなかった。ところが、この期に普及していたのは、可能な限り開豁地の戦いは避けるという戦略であった。そこでエドワード3世は、敵に攻撃を強いるために、次のような二つの戦略を採用した。

重要な都市の包囲
その都市が陥落するのを潔しとしなければ、対立する野戦軍は戦わなければならなかった。
シェヴォシェ
イギリス軍はたいまつを持って敵領域の中を騎乗し、長さ数百マイル、幅30マイルの破壊地帯を作ることで、戦いを拒んでる敵に耐えられない損害を与えた。

 服従か戦いかを迫るこの二つの戦略は効果的で、最終的にはエドワード3世が要求する条件で、平和条約をフランスに強要することを可能にした。

リーダーシップ

 プランタジネット朝が長期間にわたって戦場で成功できたのは、兵器の優位を最大限に活用する優れた戦術システムと同様、激烈に戦う部隊と、良きリーダシップに拠っていた。戦術的勝利を戦略の成果に転換するエドワード3世の巧みさは、原則の単純な遂行以上のものを必要とした。

結論

 14世紀イギリスのRMAは一般的な原則を示唆している。兵器と軍事組織の改良は、有効な戦術システムの一部として採用しなければ一貫した戦いの勝利をもたらすことはない。また、軍指導者が戦略の採用に適切な状況を作為し、次に戦場の成功を政治的な結果に変える戦略を展開し手段としなければ、その得意とする戦術は永続する勝利をもたらさない。エドワード3世のRMAを達成せしめたのは、「ダプリン戦術」、たくみな戦略、軍指導部の優れた人為的貢献の組み合わせである。

3. 軍事革命とRMA

 軍事革命とRMAとは、それぞれ異なる歴史的現象である。

軍事革命(Military Revolution)
通常、社会や国家を改造する大きな社会的・政治的変化の結果生じる。これまで軍事組織が準備し遂行してきた戦争の方法・様式を根本的に変化させる。その進行中に制度と国家を潰すか、基本的に練り直す、抑制も、予測も、予見すらできない大変動。たとえば18世紀末のフランス革命(大衆政治と戦争とが融合した結果、徴兵制が生じ、100万規模の軍隊が人類史上はじめて登場した)。
RMA(Revolution in Military Affairs):革命的軍事改革
軍隊が、教義、戦術戦法、作戦手順、テクノロジーにおける変化に関連する斬新な構想を創発する革新段階。



過去のRMAは、下記のように少なくとも4つの卓越した特性を示す。


  1. テクノロジーだけがRMAを推進したのではない。テクノロジーはあくまでも触媒として機能した。
  2. RMAは、特定の敵に対する、特定の交戦圏における、特定の作戦、戦術における漸進中の問題解決のなかから出現してきた。
  3. 現実主義に根ざした軍隊のカルチャーに基礎をおく教義と概念・構想で一貫した枠組みを必要とする。
  4. 戦略的前提と戦争の本質に根ざし、かつ限定されている。

4. 考古学の何に役立つのか

 RMAという考え方を研究に受け入れることは、二つの面で考古学に有用である。

  • 第一に、当然のことながら、軍事的側面をめぐる考古学的考察を進める上で、今後の研究では不可欠な概念になるであろうと予測される。
  • 第二に、考古学研究の方法そのもののRMAに役立つ。とくにテクノロジーの問題をどう捉えるかという点で有効である。

ちなみに、第一の有用性を示す試みとして、2005年春の考古学協会総会において

「日本列島における初期国家形成期の軍事革命」

と題する研究発表を準備をしている。
 第二の有用性、については以下のように捉えられる。
 考古学や発掘調査に新しいテクノロジーを導入しその刷新を図らなければならない、ということが繰り返し主張されてきた。筆者もそのような主張を展開して来た者の一人であるし、そうした主張は基本的には間違いなく正しいと考える。
 ただし、テクノロジーだけで考古学を刷新できるわけではない。インターネットがあれば直ちに情報共有できるわけでもない。日本の考古学研究者の悟性、その特有の文化、組織や人的紐帯の特質、指導的役割を果たす者のリーダシップなど、複雑に関連し合った現実具体的な諸事項が複合的に動き出したときにはじめて、テクノロジーは革新の触媒としての役割を果たすことができる。そのような観点から見れば、従来の主張の多くが、テクノロジーの問題を最優先に論じるだけで、現実におきる摩擦や複雑さを無視した机上の空論の傾向が強かったことは否めない。
 こうした問題の解決策を実際に考える時、RMAの研究成果を参照することが、間違いなく有用だと思われる。というのも、テクノロジーの刷新がきわめて重要なファクターとなるが、しかし問題はそれだけで解決するほど単純ではないという共通性があるからである。両者の違いは、RMA研究が、文字通り死活を懸けた問題として、考古学よりはるかに先行して議論を深化させてきた点にある。最新テクノロジーの導入を触媒として考古学を刷新するために、すでに深められているその成果から学ぶことには十分意義があるだろう。
 つまり、RMAの考え方を導入することは、考古学にとって、その内容も方法も変革させる良い機会となる、と考えられるのである。

突撃精神(2005年5月4日の記事の再録) 

Blog化以前の日記判『考える野帖』の記事。私的なターニングポイントである。


2005.5.4 突撃精神

 同時多発で次々に雑用が発生し、その解消にモグラたたきをしているような日々が続く。ついに日記というより月記になってしまった。

 さて、先日(といってもだいぶ前になるが)たまたま時間があって春成秀爾『考古学者はどう生きたか』を読むことができた。後藤守一先生の評価をめぐって重要な記述があることを、鈴木一有氏から教えていただいていたからである。一月に開催された、古代武器研・鉄器研連合研究集会で、私は「京都大学関係者の後藤守一に対する姿勢が伝統的に厳しいのは何故か」と問いかけたが、おそらくその答えがそこにあるのではないか、というご指摘であった。

 一読して、なるほどと理解できた。鈴木氏の指摘通りであった。

 実に不思議に感じたのは、後藤先生が強硬な神武東征論者であったという事実を、私が全く知らなかったという間抜けな事態である。これは全くまあなんというか、呆れられても致し方ない無知ぶりである。しかし、それにしても驚くべきことではないか。明治大学在学中に先生の業績に触れて以来、その背景にある思想性を全く知ることがないまま、四半世紀余りを過ごしてきたのである。後藤先生について、情報の乏しい環境にいたわけではない。それどころか、その生前の言動について、周囲から何かと多くのことを聞くことができる環境にいたにもかかわらずである。

 先の「京大関係者の厳しさ」も、後藤先生の思想だけでなく、今日に至っても私のような極楽蜻蛉が発生するような、無反省な状況に対する憤りから導かれるものであろう。

 いずれにしても、私には二つの問題が残された。一つは、どうして知らなかった(知らされなかった)のかという問題である。なぜ事実が柔らかく隠蔽されてきたのだろう。もう一つは、私自身がこれからどうしようか、という問題である。

 他者に対する批判は置くとして、私自身はなぜ後藤先生の思想性の問題点に気づいてこなかったのだろうか。そう反省しつつ手もとの『日本古代文化研究』と『日本考古学』をめくってみた。するとたとえば鉄鏃研究のバイブルである「上古時代鉄鏃の年代研究」の末尾に、確かに「わが上古時代の弓矢を讃えよ、弓矢こそはわが上古時代人が常に大陸の文化の影響を拒否し、毅然として日本人を主張した姿である」という記述が見つかった。これまで、そういう部分は読み飛ばして、全然意識しなかった(正直言うと、今でも「ま、このくらい良いんじゃないの」という感覚はある……春成氏には叱られるに違いない)。他の武器・武具・馬具研究者はどのように読み取っているのだろう?

 ところで、行き倒れになった古墳文化研究会の論文誌『日本古代文化研究』の誌名も、もちろん後藤先生の『日本古代文化研究』に倣ったものである。研究会は「後藤守一の考古学の正当な後継者」であることを自任していた。そしてつい最近も、その復活を展望していたところであった。さて、私はどうすべきか?

 まず第一に、私は今後も後藤先生と呼び、尊敬すべき点は尊敬していく。春成氏が批判して止まない戦争協力や皇国史観については、私とてそのまま全てを受け入れられるものではない。が、かといって先生の考古学的業績が、それによってゼロになるわけでもない。負の遺産も含めて、正面から批判的に引き受け継承して行きたいと思う。第二次大戦後、やにわに「民主主義者」や「共産主義者」に豹変した人々のような真似はしたくない。

 後藤先生は、剣・矛・盾の衰退を日本人の突撃精神で説明した。春成氏によれば、後藤先生が本当に言いたかったのは、「剣・矛・盾の衰退」ではなく「日本人の突撃精神」の方だったろうと見る。私にはそれは分からない。ただ、後藤先生が進めた「剣・矛・盾の衰退」の研究を継承すること、その上で「日本人の突撃精神」より少しはましなモデルを提示すること、その作業を進めて行きたい。倭軍主力が弓兵を主体とした軍編成を進めていたとみる、考古学協会における仮説の提示もその一環である。

無知が栄えたためしはない(2005年5月5日の記事を再録)

誤てる俗流進化論は日本考古学の十八番ではない。SECOMのWebサイトをのぞいたら、かの木村会長はまだお気に入りの「ダーウィンの言葉」を愛用しているらしい。


2005.5.5 マルクスの言葉?

 かつて所属していた測量会社Pの社長(現SECOM会長の木村昌平氏)が、次の「ダーウィンの言葉」をよく引用していた。

最も強い者が生き残るのではない。
最も賢い者が生き延びるのでもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。

 SECOMの「現状打破の精神」を示す標語として社内のあちらこちらにコピーが貼られていたのを思い出す。たしかに、なかなか気の利いた言葉ではある。
 当時、この言説に接した私は「いったいダーウィンのどこから引っぱってきたの?」と『種の起原』(もちろん翻訳)を何度かパラパラやってみたが見つからない。もしかしたらと『ビーグル号航海記』もめくったが見つからない。……ダーウィンはそんなこと書いていないんだから見つかる訳ないのである。そもそも、件(くだん)の言説と本来の進化論の考えの間にはかなりの隔りがあり(ドーキンスの解説本を読め)、はっきり言えば誤りである。さすがに最近は、この「伝説」の誤りが認識されるようになったようだ。何万年単位の生物の進化と、場合によっては瞬時に変化しなければならない企業の変化を、一緒に議論することに無理があったんじゃない。

 さて、もう一つ出典が分からないで気になっている言葉に、四半世紀以上も前の某新左翼のアジビラにあった

無知が栄えたためしはない。(カール・マルクス)

というのがある。皮肉たっぷりな、いかにもマルクスが吐きそうな台詞ではある。しかし、どこに書いてあるのか分からない。『ドイデ』にも『経哲草稿』にも、どこにも見つからなかった。もしかしたら、ビラを書いた奴がふざけたのかもしれない。結局、今日まで分からずじまいである。マルクスの著作はどこか書棚の片隅の埃の堆積の下に埋まっているはずであるが。
 何かの折に「無知」に遭遇すると(たいがい自分のだが)、かならずこの言葉が胸を刺す。たとえば、今回の後藤先生の研究をめぐる己の無知に気づいた時のように。

 どなたか、出典を知りませんか? と書いたあと、ネットを検索したら、どこかの会議でどなったらしいことが分かったが、詳しくはやはり不明。

レーザー計測をめぐる神話(2003年4月の記事の再録)

掲示板「MT15」の記録。数年後を予言したが……
古い記事なので、修正できないリンク切れがある。これを補うため末尾に情報を少しだけ補足。


No.273 梅毒で歪んだ頭骨を測った時の話

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/04/16(Wed) 18:05

 マルチン式人体計測器というのを知ってます? 人類学者や解剖学者がヒトの形態を測定するために使う標準的な道具一式です。アンソロポメータ・桿状計・滑動計・触角計・巻尺などからなります。考古学で使うマコとかデバイダーに相当するかもしれません。
 ただし考古学の計測具が「モノの形を写し取る」ことに主眼があるのと異なり、人類学や解剖学ではヒト各部の形を数値(距離)として記録することに主眼があります。
 考古学でも器高や口径など標準的な計測部位がありますが、人類学や解剖学ではさらに厳密に標準的な計測部位が定められています。例えばヒト頭部の計測部位は、次のように標準化されています。
 頭部寸法項目一覧(産業総研)
 これは生体の計測部位ですが、当然、頭骨についても同様に標準的な測定部位が厳密に定められています。
 考古学でも、こうした精密な標準化ができればそれに越したことはないと思いますが、それは無理な話というものでしょう。例えば土器にしても、形のバラツキが激しすぎて、あまり細かい標準化は意味をなさない。
 ところで、人類学者や解剖学者は、そんなに細かく各部の数値を測ってどうしようというのか。それはもうさまざまな研究目的で利用されるわけですが、例えば先の産業総研などでは「日本人の顔にフィットしたメガネフレーム」の研究なんてのをやってます。ちなみに文献に名前のあるある河内まき子さんは、私が東大の人類学教室で研究生をしていた時にお世話になった人。
 もちろん、古人類学では骨の測定値を使ってさまざまな分析をしています。平均寿命は何歳だったとか。
 私にとって非常に面白かったのは、これほど精密な道具立て(ソフトもハードも)をもってしても、なかなか思うように精密には測れない、ということ。たまたま、私が人類学教室にいた時、先の河内さん等によって、実際にはどの程度正確に計測できているのかという検証実験が行われていました。江戸時代の頭骨を30個用意して、確か50程度の部位を被験者が繰り返し3回づつ測って、それらの測定結果のバラツキを統計的に調べてみようという研究。
 私も被験者にされ、うんざりしながら、慣れない計測器を使って骨を測りました・・・何を隠そう、私は骨とかお化けはあまり得意じゃないのであります。
 そして分かったことは、古人類学の従来のかなり多くの(有名な)分析結果が、計測誤差に飲み込まれてしまう可能性が高いということ・・・例えば縄文時代の平均寿命とか。所詮、そんなものであります。
 この実験研究で考古学研究者が誇って良いと思うのは、最も計測が正確で再現性に優れていたのが、当時、明大で考古学を学んでいた宮代栄一氏であったということ。やはり、人類学者などよりは、考古学徒の方が計測は正確なんです。・・・私は、一回目を測り終えたところで、面倒になって逃げ出したので、実験データから除外されてます。
 さて、実は例によって、ここまでが長い前置きで、ここからが短い本論です。人類学や解剖学は非常に優れた厳密で標準化された計測のシステム(ハードもソフトも)を持っているのですが、それでも正確に計測するというのは極めて難しい。であるとすれば、土器の実測図の正確さとは何を意味するのか。デジタルカメラの画像をもとにした計測が歪んでいて不正確というのは、何を「不正確さの基準」にしているのか。そこのところが問題ですね。「不正確さの基準」裏返せば「正確さの基準」、これをどのように適切に設定するか、できるのか。正確・不正確議論の前に、そうした設定の有効性(正しさでなく)を議論しておく必要があると思います。うーん、思い出したように議論を蒸し返してしまった。
 ちなみに、河内さんは「一般に、熟練した計測者の計測データの再現性と精度は、3次元スキャナによる計測データより、むしろまさっています。」と言っています。

No.274 レーザー計測をめぐる神話

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/04/17(Thu) 10:49

 レーザー計測は正確で速い、とお考えの方が多いと思います。
 しかし、それは必ずしも正しくはない。レーザー計測を売り物にしている会社に居た時にはさすがに大っぴらには口にできませんでしたが、レーザー計測も万能ではありません。
 まず精度の問題。精度というのは目的に応じてそのレベルが異なるので、目的や用途を度外視して精度を論じてもあまり意味がないわけですが、いずれにしても、レーザー計測の精度は巷間で思われているほど高くはありません。ただ「一定の精度」で一挙に何万点・何十万点という測点の3次元的な位置を計測できる点がメリットと言えます。ある特定の部位を測るなら、例えば遺物の各部位の大きさなどを測るなら、ノギスなどを使った方がよほど素早くかつ正確に測れます。これは考古学だけでなく、人類学でも同じです。
 http://www.um.u-tokyo.ac.jp/museum/ouroboros/03_03/hitech.html
 諏訪さんの話に出てくるように、レーザーも直進する光なので、立体物を計測する際には必ず死角(オクルージョン)が発生してしまいます。だから一般的には何方向からか測定して、そのデータを統合しなければならない。実はこれが意外とやっかいです。まあ、
人類学で使う歯の計測データほどの精度は必要ないでしょうが、それでもそれなりに正確にいくつかの3次元形状を張り合わせる必要があります。これは結構面倒くさい。
 というわけで、レーザー計測が速くて正確だから導入すると、たぶん期待を裏切られることになると思います。考古学で真っ先にレーザー計測が必要な対象があるとすれば、例えば鏡のように複雑な3次元形状を有するものを3次元形状のままでデータ化する必要がある遺物でしょう。ただし、写真か何かでレーザー計測の結果を見ると「凄い!」と感じてしまうかもしれませんが、実際には結構「眠い」」感じの焦点の定まらない画像になります。というのも、レーザー計測では満遍なく一律に遺物の各部を計測するので、考古学者が「ここ」と思う特異点を必ずしも計測しないからです。微妙にずれる。もちろん、走査密度を上げれば考古学者の満足する3次元画像に近づいていきますが、当然のことながら装置は高価に、データは重くなります。
 というわけで、土器の実測にレーザースキャナをつかったら、何だかんだ仕事が増えて、結局のところ手で測った方が速い、という可能性が高い。そこそこのレーザー計測装置でも、馬形埴輪とか、馬高式土器とかの実測にはうまく使えると思いますが、例えば須恵器の坏なんかをレーザーで測ったら悲しい結果になるに違いありません。
 あと数年経てば、レーザー計測装置も、データ処理ソフトも今より格段と使いやすくなり、価格も購入しやすい値段になると思います。ただ、デジタルカメラで撮影した何枚かの画像から3次元形状を構築するソフトの発達の方が速いかもしれません。精度的にはレーザーに負けても、考古学の現場にはより現実的になるかもしれない。ただし、この場合も目的や用途によりけりで、もちろん万能ではありえない。
 いずれにしても、熟練した人間の精度や効率を機械が超えるのは、なかなか大変です。レーザー計測装置についても過度の期待を抱かない方がよいでしょう。と押さえた上で、適切に利用すれば、もちろん便利な道具でありますが。


現在ではこんな段階に到達しているのでご参考まで。
参考URL(デジタルヒューマン工学研究センター)

桃崎氏との対話 11(2003年3月〜6月)

掲示板「MT15」の記録


No.255 剣崎長瀞西遺跡13号土坑の轡は前代未聞

投稿者名: 桃崎祐輔
投稿日時: 2003/03/13(Thu) 00:11
E-Mail:ohkamuzumi@hotmail.com
URL:

今日筑波大学宛に 専修大学文学部考古学研究室 2003 『剣崎長瀞西5.27・35号墳 剣崎長瀞西遺跡2』 専修大学文学部考古学研究報告第1冊 が送られてきたと日高君からの知らせを受け、一時休憩して大慌てで事務の新着図書の山へ赴き早速コピー。
ここ長瀞西遺跡は、5世紀代の住居跡や長方形の積石塚などの遺構に伴って韓式土器や金製耳飾などが見つかり、渡来系集落として騒がれたところですが、馬とのかかわりでは、114号住居内土坑より1歳未満の幼齢馬の骨が見つかっており、馬の繁殖が行われていたと見られるほか、13号土坑から、古そうな環状鏡板轡を装着した殉葬馬の骨が見つかっています(黒田2000)。今回の報告では、松尾昌彦氏がこの轡を実測報告されています。実測図の公表を心待ちにしていたのでわくわくしながら頁をめくると、「何だこれは?」
鏡板は楕円形の環状部に方形の立聞がつき、そこにX字形の銜留を鋲接しているようです。この銜留に捩りのない断面楕円形鉄棒でできた銜の外環がからみ、そこに楕円形の大きな遊環を介して、一条線引手前端の円環が連結されています。引手後端は急に径を減じて細くすぼまり、U字形に横棒を渡した形状の引手壺の湾曲部を貫通し、先端をつぶして留めています。この轡には大型の刺金付鉸具2点、組合式の十字形辻金具(中央に4鋲、コハゼ形脚に3鋲を打ち、脚の付け根四方に刻目のない責金具をともなう)2点、革帯金具残欠を伴っており、頭絡を構成していたと考えられます。この轡は一度、出土直後に間近に見たことがあったのですが、厚い錆に覆われており、高句麗系の二条線スコップ状引手かと思いこんでいました。ところがX線写真の情報を加味して描き起こされた轡はほんとに今まで見たこともないような特別奇妙な引手構造で、あっけにとられてしまいました。
松尾氏は金斗吉吉氏の、朝鮮半島南部で、5世紀後葉に百済地域の影響によって轡に遊環が使用されるようになるとの指摘(金1993)を踏まえ、特異なスコップ柄先状引手壺は、二条線引手に由来するスコップ柄先状引手壺が形骸化したものと捉え、5世紀後葉に降るものとみています。そして13号土坑が、5世紀後葉の築造と推定される2号墳もしくは1号墳に伴う殉葬用土坑と考えられることを述べています。
なお「Ⅷ 論考」には「1 剣崎長瀞西遺跡27号墳・35号墳出土須恵器の検討」(小林孝秀)「2 古墳構築過程の儀礼(箭弓の儀礼)」(土生田純之)「3 古墳副葬馬具の実用性」(松尾昌彦)「4 剣崎長瀞西遺跡Ⅰ区における方墳の性格」の4編の論考が収録されており、いずれも興味深い内容となっています。特に松尾氏の考察では、殉葬馬に装着されていた馬具の銜幅の比較検討が行われています。
いやクリーニング前の馬具の上っ面だけ見て判ったようなことを言うと大変な間違いをしでかしかねないと、自身の軽率さを反省した夕べでした。
黒田晃 2000 「剣崎長瀞西遺跡と渡来人」『高崎市史研究』12 高崎市市史編さん専門委員会 pp.1‐22.
金斗吉吉 1993 「三国時代轡の研究―轡の系統研究を中心として」『嶺南考古学』13

No.279 七星剣開催に向けた覚え書き

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/05/04(Sun) 13:00

 7世紀研究会で主に何を議論するのかということをめぐって、私なりの思惑を記しておきたいと思います。シンポジウム開催に向けての前振りです。風邪を引いて調子が出ず、明後日締め切りの発表要旨の執筆が行き詰まって、苦し紛れというか、現実逃避ということもありますが。

 さて、古墳時代の馬具を代表する鉄地金銅装馬具は、7世紀中葉の飛鳥Ⅱの時期にその製作数がピークを迎え、各地の古墳に盛んに副葬されます。
 ところが、次の飛鳥Ⅲの時期に入ると、鉄地金銅装馬具は副葬品の中から急に姿を消してしまう。金銅製の毛彫り馬具と違い、その後、住居址などからも出土しない。
 古墳副葬品の主要なアイテムであった鉄地金銅装馬具が、なぜ急に消えてしまうのか(消えてしまうように見えるのか)。そこのところの議論が私の発表の一つの主眼です。
 この問題は、例えば飛鳥池遺跡の評価などと関係してきます。先にTK217の年代の話なんかばかりやったので、少し霞んでしまったかもしれませんが、こっちの方が重要な課題であるに違いありません。馬具だけでなく、武装システム全体の問題に関わって来るので、シンポジウムの議論の一つの核心になるかなと予想しています。

 考古学では、どちらかというと初現を扱うのが好まれ、消滅をめぐる議論は比較的少ない。まあ、現れるのは押さえやすいけれど、いつ無くなるのかは押さえにくい、ということもありますが。
 例えば前方後円墳。来年、神奈川で「東北・関東前方後円墳研究会」が開かれるそうですが、やはり出し物は前期古墳らしい。例によって長柄桜山とか秋葉山とかをネタにやるんでしょう。悪いけど、・・・・もう飽きたなあ。それより、相模では何故いち早くメジャーな前方後円墳が造られなくなるのか、という方が相模をめぐってはユニークなテーマになると思うんだけれど、・・・と某氏に言って嫌われてしまった。
先の「第8回東北・関東前方後円墳研究会」で興味深かったのは、水野敏典氏の前方後円墳の消長と鉄鏃の地域性との関わりを示唆する発言。おそらく、鈴木・内山両氏の発表は、ある意味で、先の水野氏の発表を受けて発展させる内容になると期待されます。
先の「東北・関東前方後円墳研究会」では、菊地芳朗氏が、私も何度か話題にした福島雅義さんの大刀の年代観を目茶苦茶に批判しておられました。実は、私の当初の計画では福島さんにも登場していただいて、徹底的に議論しようといううことだったのですが、あまり生産的じゃないということで、却下されました。とはいえ、八木さんの発表も、年代論を無視して進めるわけには行かないので、当然、その辺りをめぐる攻防があるかもしれません・・・発表の趣旨から外れるかもしれませんが。

津野さんの発表は、カバーしなくてはならない問題と時間が広大なので、30分というのは過酷なのですが、私との関わりでいえば、古墳時代の馬具研究者が7世紀までやって、後は知らないとしてきた8世紀以降の馬具について、整理していただけるはずです(実は先の鈴木さんがまとめている論文があるんですけどね)。

白石先生には、7世紀の古墳や須恵器について、最初に知識の交通整理をしていただきます。

No.280 ちょっとお知らせ

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/05/11(Sun) 18:46

関係者の皆様
私、なぜか急に発掘を担当することになり、明日から数ヶ月ほど留守にします。
本BBSの管理が疎かになる場合があるかもしれませんが、その際はご了承ください。
まあ、これまでも管理というほどのことはしてこなかったわけでありますが。
週末には会社および自宅に戻ります。
七世紀研究会や考古学協会には、たぶん現場のから直行です。

No.281 『ワカタケル大王とその時代-埼玉稲荷山古墳』

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/05/25(Sun) 08:07

宣伝です。
山川出版社から上記の本が刊行されます(小川良祐・狩野久・吉村武彦編、1900円)。
稲荷山古墳をめぐる論文集。
私は「五世紀の馬具と稲荷山古墳」という題で書いております。
桃崎さんが読んだら発狂しそうなことが・・・というと少し大袈裟だけれど。
日本列島への馬匹文化波及の機序と、f字形鏡板付轡の成立のプロセスについて仮説を提出しています。執筆の時点で例の「三燕文物精粋」を読んでいれば、少し違った書き方をしてただろうと思います(橋本さんの原稿が大幅に遅れてかなりタイムラグがあります)。その辺で桃崎さんにまた苛められるにちがいない。
私の他に、考古学では橋本博文、車崎正彦氏が書いています。私との組み合わせというのは珍しいかも。橋本さんの議論は穏健(ただし稲荷山古墳をMT15にしている)、車崎さんのは少し飛んでいるといえるかもしれません。
新潟の現場で発掘していて週末に返って協会とか研究会に出席ということで、忙しくってこの程度の書き込みをするのがやっとです。それにしても、今日の協会で桃崎さんに会えるだろうか。・・・協会の会場で七世紀研究会の打合せ。その後、新潟に。

No.283 Re: 『ワカタケル大王とその時代-埼玉稲荷山古墳』

投稿者名: 白井
投稿日時: 2003/06/01(Sun) 21:36

協会のとき本買いました。
福泉洞23号墳には,馬具関係者の皆さんお困りのようですね。
でも,同墳はやはり5世紀第4四半期くらいで,玉田M3号墳に近い時期にしか置けないでしょう(どちらかといえば福泉洞23号墳の方が古い)。韓国の編年の範囲内では特に矛盾もないと思うんですが,日本の馬具を説明するにはちょっと都合が悪いんでしょうか。
 福泉洞23号墳:鐙IIIB期・新羅IIB期(TK23並行くらい)
 玉田M3号墳:鐙IIIB期・高霊IIB期古段階(TK23~TK47のどこかに並行)
福泉洞23号墳がTK208並行期の最後の部分まで上がる可能性は完全には否定できませんが,それよりも,TK208型式に仮託されている日本の馬具がほんとうにその時期かどうか,検討が必要かも。

No.285 年とともにますます大雑把化する我が編年

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/06/07(Sat) 09:54

週末だけ新潟の現場から戻って来る生活なので、どうしても返事が遅れてしまいます。

> 福泉洞23号墳:鐙IIIB期・新羅IIB期(TK23並行くらい)
> 玉田M3号墳:鐙IIIB期・高霊IIB期古段階(TK23~TK47のどこかに並行)
>福泉洞23号墳がTK208並行期の最後の部分まで上がる可能性は完全には否定できませんが,それよりも,TK208型式に仮託されている日本の馬具がほんとうにその時期かどうか,検討が必要かも。

ぎゃふん。
七星剣で会った桃崎さんにヒジョーに珍しく褒められたんですが・・・・・・(「岡安さんにしてはマアマア」)。

このところ、毎週の行ったり来たりで、やや疲労気味であります。
あっちで原稿を書こうとタブレットPCと小型の親指シフトキーボードを持って行っているものの、夕食(宿の食事は標準以上だけれど塩辛い)でビール一本飲むとあとはzzz・・・・。
別の現場に入っている岡本氏が近くで「拾って」きた雉で雉鍋を作ってくれました。

No.291 久々の発掘から

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/06/15(Sun) 13:56

もうあと二、三日で四月となって新しい年度が始まるという三月末のある日のこと、これまで付き合いのなかった企業から電話がかかってきて、発掘の調査員を派遣してくれという唐突な依頼を受けた。
 「いつからですか?」
 「四月一日からお願いします。できれば四人、一年間。」
 「そんな無茶な、無理です。」
 「そこを何とか。」
 聞けば、発掘調査の仕事を落札したけれど、然るべき調査員を立てられず、このままでは契約を破棄される可能性があるので何とかして欲しいとのことである。しかし、そう言われても話があまりに急で、こちらも対応のしようがない。だいたい時期が悪い。自治体の職員を志望してそれが適わなかった人たちも、三月末となれば、皆どこかの現場にもぐり込んでしまっている筈だ。あちこちの知り合いに問い合わせたけれど、案の定、「もう少し早ければ」という答えしか返ってこない。
 とはいえ、実際のところものすごく困っていることは確かのようだ。頼まれると、つい助けたくなるのが私の悪い癖。大学の先輩を通してその業者の地元での評判を確かめると、これまで重機や作業員の手配など、発掘の支援業務をめぐって十年余り堅実な仕事を積み重ねているという。首都圏から落下傘降下するようにやってきて適当に仕事をやり捨て、荒っぽく儲けていくあこぎな企業とは違い、かなり信用できる業者だそうだ。
 というわけで「五月から三ヶ月間だけなら」という条件で私自身が調査員として出向くことにした。いくら超零細企業とはいえ、経営者が現場に何ヶ月も出払ってしまうというのは問題かなとも思ったのだけれど、根っから発掘調査が好きで、現場に出られるという誘惑に対抗できなかったのである。そしてもう一つ、「発掘調査の民営化」をとりまく状況は一体全体どうなっちゃっているんだろうということを、現場でこの目で確かめたかったということも、調査担当者として現場に入ろうと思った大きな理由だった。
 現場に入って一月余り立ち、いろいろ様子が判ってきた。一言でいえば、考古学関係者の思惑をはるかに超えて、現実の方が先に進んでしまっているというのが私の受けた印象である。考古学に愛着を抱いている人間の側から見れば、極めて危機的な状況と言ってよいだろう。そのことをめぐっては、三カ月間の自らの現場体験を踏まえて、いずれ詳しくレポートしたいと思う。

桃崎氏との対話10(2003年2月27日〜3月4日)

七星山96号墓をめぐるやりとり、鑣轡CGなど。


No.223 七星山96の謎

投稿者名: 白井克也
投稿日時: 2003/02/27(Thu) 18:54

本当は「七星山96号墓の謎」なのですが,謎が多そうなほうが面白いので,あえて標記のとおりとします。

集安の七星山96号墓で出土した馬具は有名ですが,原報告の図は明らかに縮尺を誤っています。『文物』1979年第1期の30頁の図では,鞍と鐙が「1/4」となっていますが,そのまま4倍するとチンケな馬具になり,大き目の五月人形が乗るやつのようです。
鞍の大きさも考慮すると,これは「1/8」の誤りではないかと考えましたが,そうすると,「ありえなくはないが,でも大きいだろ」といわれそうな大きさになります。
同じ報告を見ると,数値で法量が記された銅製容器でも,支離滅裂な縮尺と数値のため,お手上げです。
そこで本題。
七星山の馬具の法量を知っているという人,推論したことがある人,あるいは,そのような論文などを見たことがあるという方はいらっしゃいませんか?
ご存知でしたらお教えください。

No.231 七星山96の謎は解けるか?

投稿者名: 桃崎祐輔
投稿日時: 2003/02/28(Fri) 23:38

 岡安光彦様
 最近の一連のCG作画による轡の図を興味深く拝見しておりました。拍手!!もし可能でしたら、ぜひヒョウ轡については、ハミエダの挿入された図もあわせて作っていただければ嬉しいです。・・しかしヒョウのいい資料がないですね。楡樹老河深のものを使うしかないですねえ。
 失礼なものをいろいろお送りして失礼しました。無茶なギュウギュウ詰めをしていたので破裂したみたいですね。郵便局さんの手を無用に煩わせたようですね。反省。
 拙論で岡安さんに悪言を尽くしているぶんは反論していただくなり、ならぬ堪忍をしていただくなり、お任せします。それよりもお送りした切り貼り図のほうが重宝かと思いますので、そちらを(埋文研版の改訂版として)ご活用いただければ本望です。
 今週かなり余裕がなかったので手紙も同封せず失礼しました。考古学協会で増刷分を売るのに間に合わせるべく筑波大学の『先史学・考古学研究』14号掲載予定の柏崎3・4次概報の原稿書いていたのですが、やはり土器屋でない身に研究史がややこしい須恵器の検討や考察を書くのはラクではなく、共同調査者である渥美ははやばやと自分の担当部分を仕上げ、原稿刷り合わせの矢のような催促をうけつつ、当座のタイムリミットである今朝まで一歩も動けない状況が続いていました(先週土曜前方後円墳研究会に出たのもまずかったのに、日曜霞ヶ浦町の現説に行ったのもまずかった・・)。この板上で岡安さん、植田さん、あかねださん、久住さん、白井さんに教わったことを、なんとか消化したいと思ったのですがいや辛い。
 幸い渥美の方は年始に常陸の7世紀の土師器・須恵器の編年や生産に関する大部の修士論文を書き上げた余勢で、この分野の研究にかなり通じており、至らぬ私に的確な助言をくれるのですが、きびしい原稿催促にヘロヘロしておりました。しかし今日の昼、かろうじて書き上げて渥美に掏り合わせに渡した粗稿が、下館への出張から夜戻ると赤だらけで帰ってきたので、現在手直し中。やっぱり土器屋になる道は遠い(なれそうにない)です。
 ・・修行します。

 白井様
 書き込み、気になってはいましたが、手元に七星山報告のコピーがなく、昨夜は泊りで家に帰って図録にあたることもできなかったので、対応できませんでした。自分がこれをコピーして基礎図を作ったのはだいぶ前なので、どういう操作を経たか忘れてしまいました。中国の報告は、キャプションに示された縮尺はあくまでも「参考」にとどめてアテにせず、文中で個別の遺物の法量を見て、それと個別の実測図の計測値を比較して倍率を出し、縮小拡大コピーしてスケールを揃えたものを切り貼りし、それを参照しながら改めて本文を読むのが正しい作法です。しかし書き込みの様子だと、本文中に遺物の大きさ書いてないんでしょうか。その場合、高句麗であれば中国か共和国か韓国か日本の高句麗関係の豪華図録もしくは関連論文を探し(共和国のでかいナントカ文化財図録には地境洞とかの鏡板とその法量はついてましたが、七星山は吉林省だからついてなかったなあ・・記憶が・・)その記述と照合するしかないでしょう。たぶん七星山については、東潮先生が『高句麗考古学研究』に出された図も私のも、報文の写真を拡大コピー(倍率は適当?)して簡単にトレースしたものを使っています。しかし最近、ソウル大学の国際シンポジウムにかかる展覧会図録か、『伽耶と古代東アジア』の写真図版で、この鏡板轡のカラー写真を見た覚えがあるので、いますこし探してみます。金物はともかく、東先生の高句麗土器の編年図は、豆粒サイズですが縮尺は揃えてあるんじゃないかと思います。鞍と鐙については、中国歴史博物館の『中国通史陳列』日本語版図録の103ページに七星山96号のものと思われる鮮明なカラー写真があり、「ル金鞍橋、ル金馬鐙 高句麗 大鞍橋(桃註:後輪のこと)の幅50.5センチ、高さ25.4cm、馬鐙の高さ約26.8センチ、幅約17.2センチ 1976年吉林省集安市で出土」とあるので、この計測値を手がかりにとりあえずキリのいいサイズに拡大コピーをしてみて、同縮尺の遺物であればそれで、それでもダメならどうしましょうか。東先生なら、現地で現物を確認されていると思うので、とりあえず東論文の図を見てみてはいかがでしょうか。あと緒方泉さんがいくつか高句麗文物の編年論文書いておられる中では、几帳面に法量を明記されることが多いので、その中の記述を捜す手もあります。ちなみに手元にあった緒方泉 1987「朝鮮半島南部地域における高句麗文化」『同志社大学考古学シリーズⅢ(藤色版) 考古学と地域文化』495-511頁には、蓋付銅鋺の集成があり「(3)(=七星山96号のこと)例は、集安七星山南麓、鴨緑江右岸に分布する1708基(封土墳853基、積石墳855基)の古墳群中の階段式積石塚出土のものである。墓道部から、銅器3点、鉄器12点、ル金馬具57点、黄釉陶片が検出されている。銅器のうち、盒は蓋と身からなる。蓋頂部には十字形の把手をつけ、かえりをもつ。身部は低い高台をつけ、口縁部下に1センチ間隔で二条の凹線文をめぐらす。高13.8センチを測る。」とあります。これでもダメなら1985 「高句麗古墳群に関する一試考-中国集安県における発掘調査を中心にして-」『古代文化』1985-1、3にはたしかまともな土器編年図があったようなかすかな記憶が。あと見たことないですけど1983「高句麗の四耳壺」『朝鮮史研究会会報』73にはついていそうな予感。・・あとは中国の図版は、ためしに122パーセントか144パーセントかけるとキリのいい値になることもあると思います(経験則で根拠はない)が・・どれもダメだった時はまたご一報ください。

No.233 鹿角の相場、知ってます?

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/03/01(Sat) 17:22

実は鹿角製のハミエダをCGにしようと、いろいろ資料を集めています。
たとえばStoneKnife(http://www.muratasystem.or.jp/~koji/welcome.html)には、何点も非常にきれいな鹿角の写真があってとても参考になるのですが、やはり本物で立体物として観察したい。というわけで、探していました。
どうやらネットでも街頭でも、1本3000円というのが相場らしい。どうやってその値段が決まったのかわかりませんが。
というわけで、たまたま横浜の伊勢崎町を歩いている時、街頭で刃物と一緒に売っているのを見かけたので、送料がいらないだけ得だと思い、さっそく1本買ってきました。2本なら5000円といわれたのですが、なるべく大きめの見栄えの良さそうなのを1本だけ購入。
やっぱり、実物を手に取って見てみないと、遺物と同じで分からないことが多いですね。
さて、それで今や手に入れた鹿角が、他のガラクタといっしょに棚に放り投げてあるのですが、画像にできるのは何時になるやら。・・・それだけやってれば良いなら、結構すぐできるんですが。
ちなみに鹿の種類は、エゾジカです。

No.235 テクスチャーマッピングは難しい

投稿者名: 岡安光彦
投稿日時: 2003/03/03(Mon) 16:09

鹿角製のヒョウが欠けちゃってたのでとりあえず直しました。
実はテクスチャーを逆方向に貼り付けたまま。しかも貼り足りない。
引手も細いまま。「また不正確!」と叱られそう。飽くまで参考ということで。
でも鹿角製のヒョウ(ハミエダ)にハミエダ留がどう装着されるかはご理解いただけるかと。
この種の金具がどう使われるのか理解できていない実測図も見かけるので敢えて未成品をさらしものに。

No.236 素晴らしい鑣轡ですね!!

投稿者名: 桃崎祐輔
投稿日時: 2003/03/04(Tue) 08:41

 岡安光彦様
 お見事!! どうしても図上では素環轡まがいの印象しか受けない鑣轡ですが、こうして鹿角製ハミエダを挿入すると、鏡板轡に劣らない迫力ですね。しかし物見塚の轡は系譜が難しいですね。恥ずかしながらまだ半島でこれに近いものを見つけておらず、まだどこの系統だかわからずにいます。
 鹿角の向きについては、尖っている方が上で良いと思います。池山洞32号の金属鑣轡、あるいはこの形態を受け継ぐf字のことを思えば、やはりこの向きでいいのだと思います。
 そういえば滋賀県米原町の大乾1号墳では、削平された円墳の周溝内から複数頭の馬歯列が見つかっているほか、周辺からTK23くらいの須恵器坏と、馬?形埴輪が出ています。この馬は一見牙をはやしたイノシシのようにも見えますが、手綱の表現があるので、牙ではなく轡を表現しているようです。昔は小形のf字と思っていましたが、岡安さんのCGを見て鑣轡と見たほうがいいかもしれないと思いました。

 そういえば実測図は公表されていませんが、静岡県藤枝市の資料館には、付近の西ノ宮1号墳から出土したすばらしい鑣轡が展示されています。遊環を介さず一条線蕨手引手を連結しています。ハミエダは消失していますが、銜外環の内部には鉄板を短い筒状に加工したものが挿入されており、鉄筒部に立聞カスガイが打ち込まれています。この古墳では古式の立花とともに剣、TK216型式頃の古式須恵器の大甕が出土しています。東海最古?の馬具として、注目されます。
 この資料の存在は、無知な未熟者の私に馬具のイロハを伝授してくださった、師匠の川江秀孝氏から教わったのですが、初めて見たとき驚愕して夢中でスケッチした記憶があります。常設展示されていますので、馬具屋のかたがたは是非見ていただきたい逸品です。

 書き込みしているうち居眠りして夜が開けてしまいました。原稿がんばります。

蝗害

 数日前から、アクセス数がいきなり一桁増えた。CHINAの検索サイト百度(Baidu)が放った検索ロボットが、飛蝗のようにわがBlogに群がり、エゲツない情報収集を始めたからだ。いったいどういう検索アルゴリズムを使っているのか知らないが、猛烈に効率が悪い。何度も同じことをくりかえす。その効率の悪さを、検索相手のサーバに、遠慮無く転嫁してくる。なんという行儀の悪さだろう。国内はもとより、世界中で、こういうことをやって、恥ないのだろうな。まあ、小一時間もあれば、対応できるのだから、ブツブツいうのも何だけれど。そういう問題じゃなくて、非常に欝陶しいのだよね。Korea発の検索エンジンにも、同じようにエゲツないのがある。東洋の恥だ。連中は、放っておくと、必ず無政府状態になる。

桃崎氏との対話 9(2003年2月27〜28日)

七星山96号墓をめぐるやりとり


No.223 七星山96の謎

投稿者名: 白井克也
投稿日時: 2003/02/27(Thu) 18:54

本当は「七星山96号墓の謎」なのですが,謎が多そうなほうが面白いので,あえて標記のとおりとします。

集安の七星山96号墓で出土した馬具は有名ですが,原報告の図は明らかに縮尺を誤っています。『文物』1979年第1期の30頁の図では,鞍と鐙が「1/4」となっていますが,そのまま4倍するとチンケな馬具になり,大き目の五月人形が乗るやつのようです。
鞍の大きさも考慮すると,これは「1/8」の誤りではないかと考えましたが,そうすると,「ありえなくはないが,でも大きいだろ」といわれそうな大きさになります。
同じ報告を見ると,数値で法量が記された銅製容器でも,支離滅裂な縮尺と数値のため,お手上げです。
そこで本題。
七星山の馬具の法量を知っているという人,推論したことがある人,あるいは,そのような論文などを見たことがあるという方はいらっしゃいませんか?
ご存知でしたらお教えください。

No.231 七星山96の謎は解けるか?

投稿者名: 桃崎祐輔
投稿日時: 2003/02/28(Fri) 23:38

 岡安光彦様
 最近の一連のCG作画による轡の図を興味深く拝見しておりました。拍手!!もし可能でしたら、ぜひヒョウ轡については、ハミエダの挿入された図もあわせて作っていただければ嬉しいです。・・しかしヒョウのいい資料がないですね。楡樹老河深のものを使うしかないですねえ。
 失礼なものをいろいろお送りして失礼しました。無茶なギュウギュウ詰めをしていたので破裂したみたいですね。郵便局さんの手を無用に煩わせたようですね。反省。
 拙論で岡安さんに悪言を尽くしているぶんは反論していただくなり、ならぬ堪忍をしていただくなり、お任せします。それよりもお送りした切り貼り図のほうが重宝かと思いますので、そちらを(埋文研版の改訂版として)ご活用いただければ本望です。
 今週かなり余裕がなかったので手紙も同封せず失礼しました。考古学協会で増刷分を売るのに間に合わせるべく筑波大学の『先史学・考古学研究』14号掲載予定の柏崎3・4次概報の原稿書いていたのですが、やはり土器屋でない身に研究史がややこしい須恵器の検討や考察を書くのはラクではなく、共同調査者である渥美ははやばやと自分の担当部分を仕上げ、原稿刷り合わせの矢のような催促をうけつつ、当座のタイムリミットである今朝まで一歩も動けない状況が続いていました(先週土曜前方後円墳研究会に出たのもまずかったのに、日曜霞ヶ浦町の現説に行ったのもまずかった・・)。この板上で岡安さん、植田さん、あかねださん、久住さん、白井さんに教わったことを、なんとか消化したいと思ったのですがいや辛い。
 幸い渥美の方は年始に常陸の7世紀の土師器・須恵器の編年や生産に関する大部の修士論文を書き上げた余勢で、この分野の研究にかなり通じており、至らぬ私に的確な助言をくれるのですが、きびしい原稿催促にヘロヘロしておりました。しかし今日の昼、かろうじて書き上げて渥美に掏り合わせに渡した粗稿が、下館への出張から夜戻ると赤だらけで帰ってきたので、現在手直し中。やっぱり土器屋になる道は遠い(なれそうにない)です。
 ・・修行します。

 白井様
 書き込み、気になってはいましたが、手元に七星山報告のコピーがなく、昨夜は泊りで家に帰って図録にあたることもできなかったので、対応できませんでした。自分がこれをコピーして基礎図を作ったのはだいぶ前なので、どういう操作を経たか忘れてしまいました。中国の報告は、キャプションに示された縮尺はあくまでも「参考」にとどめてアテにせず、文中で個別の遺物の法量を見て、それと個別の実測図の計測値を比較して倍率を出し、縮小拡大コピーしてスケールを揃えたものを切り貼りし、それを参照しながら改めて本文を読むのが正しい作法です。しかし書き込みの様子だと、本文中に遺物の大きさ書いてないんでしょうか。その場合、高句麗であれば中国か共和国か韓国か日本の高句麗関係の豪華図録もしくは関連論文を探し(共和国のでかいナントカ文化財図録には地境洞とかの鏡板とその法量はついてましたが、七星山は吉林省だからついてなかったなあ・・記憶が・・)その記述と照合するしかないでしょう。たぶん七星山については、東潮先生が『高句麗考古学研究』に出された図も私のも、報文の写真を拡大コピー(倍率は適当?)して簡単にトレースしたものを使っています。しかし最近、ソウル大学の国際シンポジウムにかかる展覧会図録か、『伽耶と古代東アジア』の写真図版で、この鏡板轡のカラー写真を見た覚えがあるので、いますこし探してみます。金物はともかく、東先生の高句麗土器の編年図は、豆粒サイズですが縮尺は揃えてあるんじゃないかと思います。鞍と鐙については、中国歴史博物館の『中国通史陳列』日本語版図録の103ページに七星山96号のものと思われる鮮明なカラー写真があり、「ル金鞍橋、ル金馬鐙 高句麗 大鞍橋(桃註:後輪のこと)の幅50.5センチ、高さ25.4cm、馬鐙の高さ約26.8センチ、幅約17.2センチ 1976年吉林省集安市で出土」とあるので、この計測値を手がかりにとりあえずキリのいいサイズに拡大コピーをしてみて、同縮尺の遺物であればそれで、それでもダメならどうしましょうか。東先生なら、現地で現物を確認されていると思うので、とりあえず東論文の図を見てみてはいかがでしょうか。あと緒方泉さんがいくつか高句麗文物の編年論文書いておられる中では、几帳面に法量を明記されることが多いので、その中の記述を捜す手もあります。ちなみに手元にあった緒方泉 1987「朝鮮半島南部地域における高句麗文化」『同志社大学考古学シリーズⅢ(藤色版) 考古学と地域文化』495-511頁には、蓋付銅鋺の集成があり「(3)(=七星山96号のこと)例は、集安七星山南麓、鴨緑江右岸に分布する1708基(封土墳853基、積石墳855基)の古墳群中の階段式積石塚出土のものである。墓道部から、銅器3点、鉄器12点、ル金馬具57点、黄釉陶片が検出されている。銅器のうち、盒は蓋と身からなる。蓋頂部には十字形の把手をつけ、かえりをもつ。身部は低い高台をつけ、口縁部下に1センチ間隔で二条の凹線文をめぐらす。高13.8センチを測る。」とあります。これでもダメなら1985 「高句麗古墳群に関する一試考-中国集安県における発掘調査を中心にして-」『古代文化』1985-1、3にはたしかまともな土器編年図があったようなかすかな記憶が。あと見たことないですけど1983「高句麗の四耳壺」『朝鮮史研究会会報』73にはついていそうな予感。・・あとは中国の図版は、ためしに122パーセントか144パーセントかけるとキリのいい値になることもあると思います(経験則で根拠はない)が・・どれもダメだった時はまたご一報ください。