執筆再開

 遅ればせながら、明けましておめでとうございます。9日に帰国したものの、さすがにバタバタしており、この週末になってやっと自分の原稿に取りかかる余裕ができました
 まずは春の考古学協会総会の発表要旨に着手。たかだか見開き2頁の分量なので、今日と明日の二日で完成させる予定です。
 しかし、かのパスカルも「今日は時間がないので短い手紙が書けません」と言ったとか言わなかったとか。とくに新しい図版の作成に手こずっています(あまり小さくすると見えないし、大きくすると入り切らないし)。仕方が無いので、図版はなるべく発表の際に見せることにして、要旨はテキスト中心と割り切ることにします。といっても、原稿用紙にして6〜7枚程度の分量に過ぎませんが。
 あたふたすることになった主因は、もともと予定していた発表内容を、大幅に拡張したからです。本来は昨年の土曜考古で発表した内容を、少し焼き直して、発表の際に少し新味を加える程度のことを考えていました。ところが、「規約」を読むと「完全に内容が新しくなきゃいけない」ようなことが書いてあります。それじゃあ仕方が無いと、隠し玉としてとっておいた爆弾も仕込むことにした次第。
 いずれ私の論題を見て、おそらく大半の協会員が「何これ?!」と仰け反るにちがいありません。先日、赤塚次郎氏に打ち明けると「えー!本当ですか?それはやばくないですいか!」と感激していただきました。そして「よく考古学協会が認めましたねえ。戦後、そういう題でなされた発表も論文もないでしょうね、画期的かも、ワハハ!」とのお言葉も頂戴。まあ、そういうわけで「きわどい論題の手堅い発表」を目指します。

Stay hungry,stay foolish.

お知らせ

 年明けまで三週間ほど日本を留守にします。フランス北東部のアルザスに住んでいる母を訪ねるのが目的ですが、それにかこつけてヴォーバンの要塞やソミュールの戦車博物館を訪ね、帰りはウィーンに寄り道してくる予定です。その間、連絡がつかなくなる方もいらっしゃると思いますが悪しからず。御用のある方はGmailアドレスにメールしていただければ幸いですが、その場合もご返事が遅れるかもしれません。実は今回、写真撮影は別として、記録はモレスキンだけというアナログの旅にするつもりでいます。ときどき同行する次女のMacBookairを借りてメールのチェックくらいはしたいと思いますが。というわけで更新もどうなるか分かりません。皆さま、良いお年を!

マッキンダー『デモクラシーの理想と現実』

 3週間の欧州旅行に携える本をどうしようかと思案していると、駿河台方面の某大学図書館の棚から「オレを読め、まだ読んでないだろ!」と呼びかけてきたのがこの本。
 Sir Halford Mackinder(1919)”Democratic Ideals and Reality”(曽村保信訳『マッキンダーの地政学ーデモクラシーの理想と現実』2008原書房)ーいわゆる地政学の宝典である。
 マッキンダー(1861−1947)はオックスフォード大学で法律を学び地理学に転じた現代地政学の祖、オックスフォード大学初代地理学院長にして下院議員。
 ハードカバーだけれどB6判320頁とそれほど嵩張らないので持って行く1冊にした。ざっと目を通してみた感じでは反証不能な話が多いという印象。まあ4回のフライトに列車による大移動が3回と時間は十分にあるので、じっくり読みこんで地政学のお勉強をしてこよう。
 『カフェのドイツ語』『カフェでフランス語』は数に入れないとして、あと2冊くらい。何を持って行こう。

第二次ウィーン包囲と2枚の地図

 年明けにウィーンに立ち寄ることもあって、19世紀代に取り壊されて今は無くなってしまったウィーンの稜堡式城郭について調べている。知ってる人には何を今さらだと思うけど、なかなかどうしてけっこう驚かされる図に出会った。
 神聖ローマ帝国の首都ウィーンは、1529年と1683年の二回、オスマン帝国の大軍によって包囲されたことがある。たまたま1683年の第2次包囲の時、近代的な測量法によるウィーンの精細な地図を作成している真っ最中だった。測量は戦闘で一時休止し、翌年に完成したが、それを見るとオスマン軍が攻撃のために縦横に掘削したトレンチや配置されていた大砲が生々しく図化されている(Daniel Suttinger,1684)。
 図を見れば分かる通り、半月保が一基完全に破壊されており、矢頭形稜堡も一基が陥落間近、もう一つの稜堡も先端部が既に破壊されている。トレンチが何本も主壁の基部に取り付いており火薬を詰めて爆破されれば、ひとたまりもない状態である。しかもそこは、市街の西側、王宮のすぐ横手に当たる。ウィーンの街は、まさに風前の灯火ではないか。
 実際にはポーランド王が援軍に駆けつけ、ドイツ諸侯とともに辛うじてオスマン軍を撃破し、文字通り間一髪のところでウィーンは救われた。文字でそう読んでもピンとこないが、ズッティンガーの精細な地図を見て、なるほど大変な事態だったんだと納得したしだい(重ねて今さらですが)。
 関連して、もう一つ驚かされたことがある。全く同時期に、オスマン側で描かれた「地図」がある(公開できる図が見つからない)。幼稚園生でも、もう少しなんとかお絵かきできるだろうという、呆れるくらいに稚拙で原始的な「絵」だ。前近代と近代とが衝突した戦争であることが地図を対比しても分かる。ただし近代だから前近代に勝てたのかというと、それはかなり怪しい。勝敗は紙一重だったわけだから。
 驚きかつ考えさせられた2枚の地図であった。

ヴォーバン・オタクのための本

 数年前、妹夫婦にライン川を超えてフライブルクに連れていってもらったとき、遠くに延々と広がる城塞を発見して「あれは何?」と叫んでも、「あんなところはつまらないよ」と連れていってもらえなかった時以来、なぜかヴォーバン元帥が17世紀に建てた(上から見ると)星型の要塞に惹かれて、折があれば訪ねるようになった。件のヌフ・ブリザッハも、妹たちに相手にしてもらえないので、ローカル・バスに乗って見物してきた。日本に帰ってきてから、その年にブザンソンなど12のヴォーバン要塞が世界遺産に登録されたことを知って「地元の人間よりよほど先見の明があったわい」と思ったけれど、もちろん誰も褒めてくれない。
 ヴォーバン元帥の要塞について何か書いても売れるわけないので、詳しい紹介をした本は日本にはもちろん皆無。それどころか英語で書かれた本もあまりないようだ。そんななか、この本は図版も多くて、ガイドブックとしてなかなか役に立つ。グーグルマップの航空写真と見比べながら、次はどの星型要塞を訪ねるか妄想に耽るオタクな私。
 

5月の考古学協会に向けて

 来年の5月27日(日)、立正大学で開かれる考古学協会での口頭発表を申し込んだ。それとは別に実は、栃木で開かれた秋の大会の時、二次会の席で発掘調査技術をめぐるセッションを立ててみたらというお話をいただいていた。そして実際、先日名古屋で開いた考古学ソリューションをベースにしたそれを目論んでいた。しかし確認してみると発表者は会員に限定されてしまう。そうなると、発表可能なのは私と赤塚さんくらいしかいない。しかも赤塚さんは考古学協会そのものに全く関心を失っている。これはもう如何ともしがたい。というわけで発掘調査技術セッションは断念(誰かやってください)。
 さて、自分の研究発表だけど、震災の直ぐ後に埼玉の「土曜考古」でやった「アマテラスの剣」を、さらに過激にした内容で行く。たぶん題名だけで大反発を食らうにちがいない(反発も狙いのうちであるが)。正式に受理されるまで内緒。「土曜考古」でも神話に論及したというだけで、発表内容とは何の関係もなく、平和と民主主義な方にうんざりするくらい執拗に絡まれたから、次の発表でも「民主勢力」方面から罵詈雑言が飛んでくるに違いない。今から楽しみである。
 何度か紹介しているけど、今回の発表は、春成秀爾氏の次のような言明に対する私なりの答えでもある。

 こうしてみると、神武東征説は、私学の研究者や在野の研究者が取りあげ、帝国大学やのちの国立大学や国立の研究機関は取りあげないというはっきりとした色分けができるテーマであることがわかる。(春成秀爾2003学生社『考古学者はどう生きたか』232頁)

 売られた喧嘩は買わねばなるまい。神武東征を取りあげても考古学としてきちんと成立することを分かりやすく示してみせる。方法的には、かつて東国舎人騎兵について論じた時と同様(岡安光彦1986「馬具副葬古墳と東国舎人騎兵」『考古学雑誌』第71巻第4号54頁〜76頁)、図のような論法を採用する予定。

抵抗型知識人から設計型知識人へ

 先の『革新幻想の戦後史』で竹内洋は次のよういっている。
 戦後の高度成長の過程で、知に変貌が起こり、それまで力を握っていたイデオーローグや社会哲学者に代わって、エコノミスト、システム・アナリスト、経済官僚のようなテクノクラートが擡頭した。それは「思想インテリ」から「実務インテリ」へ、「抵抗型」知識人から「設計型」知識人へ、(普遍知にもとづく)「近代的」知識人から、(専門知にもとづく)「現代的」知識人への地殻変動だった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』もそのような思想史的背景のなかで、思想インテリから見る日本近代史ではなく、実務家インテリからみた近代日本史として書かれたのである。
 もちろん、竹内がいうところの「抵抗型」知識人が消滅したわけではなく、「設計型」知識人が相対的に力を増して社会で大きな役割を担うようになった、ということであろうが。
 さて、考古学の世界に目を向けた場合、「抵抗型」研究者から「設計型」研究者へという知の地殻変動は起きたのだろうか? 赤塚さんが苛立ったいるのは、その辺りの問題というか限界だと、私は思っているのであるが。

竹内洋『革新幻想の戦後史』

 教育社会学者の目から見た戦後史。久しぶりに面白くて読み応えのある本だった。500頁余のハードカバーで持ち歩くにはちょっと重かったけれど、最近なかなか読書時間がとれないこともあって、通勤電車に揺られながら、ランチタイムに注文した料理が出てくるまで、さらに居間のソファで夜更けまでと読み続け、昨日の朝は物凄い寝不足のなかで現場に打ち合わせに出かけるはめになった。
 1960年代におきた全共闘による大学紛争の激化は、1930年代に頻発した大学紛争に酷似している。その共通の原因に大学生数の爆発的な増大、そしてその背後に農村から都市への人口流出と知識階級の急激な増加があり、戦争で一時的に閉塞したが、戦後の高度成長経済のなかで再発した、実はひと続きの歴史の動きである、という説明にはなるほどと思った(教育社会学では常識なのかも知れないが)。大学生数の爆発に平行して、同じく1930年代と1960年代に、学生数の急増に応じた大学数の増加と規模の巨大化、それにともなう大学教授の粗製乱造があり、それが学生の不満にさらに火をつけ紛争の共通の原因の一つになった、という話にも頷けた(大学教員の乱造は戦後まもなくの50年代にももう一時期あった)。
 教育社会学のやり方をまねて、考古学の現状を人口圧や人口の年齢構成の変動という観点から見ると、これも納得がいくのであった、残念ながら。今になって慌てているとすれば、ドラッカーのいう「すでに起こっている未来」を見ていなかったというわけ。

ハイエクのウィーン

 12月末、フランス北東部のアルザスで暮らしている母を二年ぶりに訪ねてこようと思う(この世の荒海を乗り越え生き抜くことに追われていたとはいえ何と親不孝)。はじめの予定では独りで、スイス航空を利用して(2列席だから楽だし)チューリッヒ経由の最短距離で往復しようと考えていたが、なぜか妻と末娘も同行してオーストリア航空を利用し、帰りはウィーンに寄り道するということになった。
 そういうこともあって、そのうち読もうと思って、しかし例によって途中で面倒くさくなって放ってあった『フリードリッヒ・フォン・ハイエクのウィーン』を引っ張り出して、飛ばし読みしはじめた。以前、斜め読みした時もそうだったが、ドラッカーに関する言及がないことには不思議な感じがする。ハイエクの『隷属への道』は、ドラッカーの『経済人の終わり』を意識して書かれたのだと思うし、二人とも古きよき日のウィーンの残照を経験した世代の人々だし、何故なんだろう。正統派社会学者がドラッカーを語るなんて沽券に関わる?
 それはそれとして、ハイエクが真性のブルジョア階級の出身であることを、この本に掲載された写真の解説から思い知らされた。母親の実家の屋敷があったのは、オペラ座の真ん前ではないか(今ではホテル・ブリストルになっている)。今度行ったら、ハイエク神社にお参りしてこよう。

日本人が見出したカミ

 考古学研究者には全く馴染みがないと思うが、小山悳子(おやまとくこ)の二著作『日本人が見出した元神(カミ)』と『日本人が求めた元神ー現代科学と神道書『神令』を通してー』を合わせて読んでいる。正確には、この度の大震災で一時的に読む力を削がれてしまっていたが、一月半を隔てて、ようやく気を取り直し、読むことを再開できたのであるが。
 筆者は松山市出身の思想史家で、愛媛大学の国文科を経て聖心女子大学および立教大学の大学院で日本のキリシタン研究に従事する過程で、先史時代から今日まで続く神道の本質とは何かという思想史上の問題を突き詰めざるを得ず、その考察の成果を「日本人の元神(カミ)」をめぐる二つの論考にまとめたのであった。その立ち位置は、『日本人の見出した元神』「あとがき」に記された筆者の次のような思いをよめば、ほぼ直感できると思う。

 私は、幼い頃から神という問題を、いつもかかえていたような気がする。薄幸であったが深い信仰をもった祖母や、父母の影響があったようだ。そのことが、私をカソリック教会に導いたのであり、三位一体のペルソナを備えた神観念を学び、神が私の最も求めていた愛なる存在であることを知った。……
 しかしながら、この反面いつも私の胸中をよぎっていたものは、なつかしい日本の神であり、その神が、カソリックの説く神と重なることしばしばであった。このように書くと、何か私が、偶像的な神を心にイメージしているように思われるかもしれないが、全くそうではなく、声となり霊的な存在として、私にささやきかける神なのである。カソリックの説く神は、理路整然としていて理解しやすかった。それに比して、私の知覚している日本の神は、説明のしようのない何か漠然とした霧のかなたにあるもののようで、それでいながら私の心を捉えて離さない存在であった。
 ……
 この研究の成果から得た日本の歴史のなかにある、日本人が見出した元神も、私の考えている神の一部であると思っているが、この元神を見出していく心の軌跡こそ神道であって、決して、国家主義によって歪められたために、国際社会に責めを負い日本人の心に汚名を残した神道という名で呼ばれたものではなく、そのようなものとはおおよそ性格を異にしたもの、国の営利などとは関係のない、それでいて日本の国の最も善きもの、美しいものを導きだしていく愛と真理を兼ね備えた存在を、神道と呼ぶのだと私はここに断言する次第である。

 畏友、赤塚次郎氏の神観念にもつながる考え方だと思うが、戦前からのプロテスタントの家庭に育ちキリスト教の教理をあれこれ身につけつつも、しかし団塊の世代を見上げながらマルクス主義の強い影響を受け、ところがどっこいルーテル教会で結婚式を挙げ、そして子供たちが独り立ちしつつある今になっても、宗教的あるいは思想的に釈然とせず、どうしても日本的なるものに惹かれていく私の思考回路にとって、筆者の立ち位置は非常に理解しやすいものである。
 とくに、現人神(あらひとがみ)という神観念が、キリスト教の絶対神と対抗するために本居宣長が発明し、神道に新しく付け加えられた考えであり、それをもとに平田篤胤による国家神道が創出されたのであるという筆者の指摘には、不勉強な私には、眼から鱗が落ちる思いをさせられたのであった。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教・マルクス主義に共通する独善的で排斥的な絶対神が、本来はきわめて寛容な神道に接木された、ということであろう。
 さて、というわけで、きわめて豊かな内容をもつ日本神話を、どう考古学に活用していくか、その最初の実験となる論文の執筆を、ぼんやり立ち止まっていないで先に押し進めなければ。