『アマテラスの誕生』

2010/02/08

 東海例会に参加した折、A県埋文センターのH氏から、穂積さんと私は二人とも右翼だから、という名誉あるお言葉をいただいた。それは私には褒め言葉なので嬉しいのだが、如何せん、実は私は佐藤優が言うところの佐幕派負組の基督教徒の家に生まれ、僻み根性丸出しの左翼的思想環境の中で育ち、そのまま何となく大人になったので、本来なら右翼として持っていなければならない基本的な教養、いやそこまでいかない右翼としての常識すら、凡そ持ち合わせがない。それどころか國學院大學の方々の神道考古学を「神さま考古学」などと小馬鹿にして揶揄し、自らは科学的考古学を標榜し、恥ずかしいくらい無知を放置してきた。そういうわけで、今になって遅まきながら、慌てて「右翼」としての修養をしているところである(ちょっと遅すぎたけど)。
さて、『アマテラスの誕生』には、異なる著者による二作がある。どちらも面白い。溝口睦子によるそれは以前読んでいたが、筑紫申真の方はごく最近になって手にして、面白くて一気に読み通した。半世紀前に書かれた本で、修正されなければならない部分も多いが、それはそれとして、たいそう示唆に富んでいる。何より、文がうまくて、読みやすい。一般向けの本の手本のような文体だと思った。真似できるかどうかは、ともかくとして。
いずれにしても、たまたまこの本で一夜漬けしてあったおかげで、にわか右翼の私にも、穂積さんの話を理解しやすかった。

「東海における古墳時代祭祀・信仰の諸問題」

2010/02/07

古墳時代における信仰や祭祀の問題を考えるために、東海の代表的な古墳時代祭祀遺跡や古社、古墳などを手掛かりに、「カミ」の性格や祭祀と葬送の関係性、あるいは古社の成立背景など祭祀を取り巻く様々な問題を顕在化させて、今後の祭祀研究に寄与しうるための方法論を吟味して行きたい。

という趣旨(穂積裕昌氏による)に引寄せられるようにして、考古学研究会第14回東海例会に顔を出し、ついでに少し伊勢路を歩いて来た。
北條芳隆氏が指摘したように、先の大戦後の日本考古学は、「記紀神話の呪縛からの解放」を歌い、それまでの研究をリセットして(したことにして)、ごく大雑把にいえば、冷戦下における東側陣営の思想基盤であったマルクス主義史観を、その方法論上の主柱として発展して来た。そして今、その歴史的な限界に突き当たりつつあると思う。思っていない研究者が大半であろうけれど。リセットをリセットして、というのはもちろん皇国史観に立ち返れというのではなく、過去を受容する勇気を持って、排斥的な一神教的考古学からの脱皮を模索していかねばならないということだけれど、そうした潮流が沢音を立てて流れるまでには、もう少し時間がかかりそうだ。
ところで、趣旨を敷衍すれば、「古墳時代」ってのは辞めにして、上古時代とか、大和時代といった過去に用いられた時期区分を踏襲したほうが適切かもしれない。穂積さん、どう思われます?

論争?

2010/02/03

某ブログで「新納・福島論争」って書いてたけど、あれって「論争」になってたかな?

むしろ、「新納・白石論争」と言った方が、話の筋道が見えやすいのではないかと思うけれど。

とまれ、我が古墳文化研究会は、1980年代において既に、私が時に政治的に日和見する以外は、明確な主張をしていたと思う。

いろいろ届く

2010/02/01

雨が雪に変わり始めた夕刻、帰宅すると思いがけないものが届いていた。
その1)土佐に出向いていた長男が、銘酒亀泉を送ってくれた。もちろん、全く火入れしていない生、それも、赤鬼でも飲めない珍しい銘柄の大吟醸を一升瓶で。これは豪毅だ。早速、茨城で仕入れて来た、美味しい白菜漬けと、やはり茨城の八頭と椎茸の鍋を肴に一杯。香り高く、濃厚だがすっきりという、麗しき矛盾。唎酒師にして杜氏の社長が、自分で飲むために創った酒。新潟の水っぽい酒と違い、量は飲めない、また飲むべきでない、味わい深い清酒。
その2)匿名の方から、ある資料が届いた。さて、と少し考え込んだ。どうしよう。やはり、義を見てせざるは勇なきなり、であろう。友人諸氏に諮り、考古学者の一分を果そうと思う。慎重に。確かにお預かりしました。うまく行くかどうか分かりませんが、努力してみます。

「忌むべき過去」

2010/01/30

 このところ仕事の疲れが溜っているのか、週末は家で大人しくしていることが多い。先週も、明大考古学専攻生の同窓会に行きそびれてしまった。前日まで頭にあったのだが、当日になって朝から雑文を書いているうちに、すっかり失念してしまい、「ああそうだった」と気付いた時には、すでに日が傾いていた。今から出かけると、ちょうどお開きになる時間かなと思うと、何だかえらく億劫になって、そのまま家でワインの栓を開けてしまった。
 そして今日も、小田原で開かれるシンポジウム「古墳時代の始まりと足柄平野」に顔を出そうと昨日まで思っていたのに、何やら体が重い。朝食後、少し体を休めようと床に就いたら、驚いたことに目を覚ますと午後になっていた。ぼんやり『龍馬伝』の再放送を見たり、先の大戦のドキュメンタリー番組を眺めているうちに、これから出かけても、くだんのシンポジウムが終わる頃だろうという時間になってしまった。長いことお会いしていない方も多いので、「反省会」にだけ出席するのも悪くはないのだが、今ひとつ元気が出ない。いよいよ齢かも?
 さて、宮部みゆきは好きな作家の一人だが、全ての作品を読んでいるわけでもない。たとえば『蒲生邸事件』も、タイムスリップがテーマという理由で、これまで何となく敬遠していた。たまたま会社への行き帰りに、佐藤優と魚住昭の対談集『ナショナリズムという迷宮ーラスプーチンかく語りき』(朝日文庫、2010年)を読んでいて、佐藤が「二.二六事件を武力を持った官僚の一部が起こした事件として考えてみましょう。二.二六事件を考える上でおすすめのテキストがあります」と紹介しているのを見て、そういう読み方もあるかと、くだんの作品を求めたのであった。
 すでに繰り返し議論されているようなので、このブログで今さら取り上げるのも何だけれど、文庫版の「解説ー過去を差別しないという原点」で、関川夏央が次のように指摘しているのは大切だと思う。

 私たちは「戦前」に対しては進歩の概念を脳裡に置きながら、忌むべき過去として無意識に切って捨てがちなのだが、宮部みゆきは、時をまっすぐにつらぬいてかわらぬものがある、かわってはならないものがある、といっている。それはひと口でいうなら「過去を過去であるという理由で差別しない態度」である。

羨ましい

2010/01/28


 後方支援している現場を陣中見舞いして来た。調査前は試掘結果から縄文と古代の二時期、比較的単純な遺跡のはずだったが、発掘を始めてみると、縄文中期が少なくもと二時期、弥生時代後期、古墳時代前期とたぶん後期、古代に複数の時期と、一大複合遺跡であることが判明。とくに厄介なのが縄文中期の所謂フラスコ形土壙がたくさん出て来たこと。径6〜70センチの単純なピットと見えて、実は深さ2メートル、直径3メートルという大土壙が隠れていた。そういう訳で、フラスコ形と分かったら一旦掘るのを止めて、周囲にある後の時代の遺構を先に調査し終えてから、改めて掘らねばならない。上にある遺構も複雑に切り合っているから、どういう順序で掘っていくか、まるで立体パズルである。おまけに深さが半端じゃないから、掘削作業は極めて危険でもある。現場でその困難に立ち向かうなかで、調査に当たる彼女や彼らが、日を追って調査員としての力を向上させて行くのが、傍目からみていても良くわかる。周囲は、古き良き日の、日本の里村が、美しく残る土地。色々な意味で、現場に毎日立てる諸君が羨ましい。もちろん、肉体的にも精神的にも過酷な日々であることを承知の上で。

データレスキュー3

2010/01/23


Time Machine用の外付けディスクドライブとして使っていたLaCie Desktop Hard Disk 1TBが固まってしまってからずいぶん経った。そのうち修復しようと思っていたが延び延びになっていたのだ。データレスキュー3を仕入れて試してみると、実に優秀で完璧に修復してくれた…まあ、酷く痛めつけていたわけではないこともあるが。それではというので、完全にマウントできなくなっていた日立製の内蔵用HD500GBにも試してみると、これも見事に生き返った。ハードディスクが固まってしまったマカーは、妙に自分で弄くって事態を悪化させる前にデータレスキューを試してみることをお勧めする。

ブザンソン城塞の203高地

2010/01/16


上の写真から色々なことが分かる。たとえば、ヤワな手摺から身を乗り出して撮影している私が恐怖感で平衡感覚を失い(それでさらに怖くなるのだが)、写真の水平が取れていないこと。まあそれはさておき、左側の斜堤(今は木立があるが砦として機能している時には何も植栽されていなかったはず)の傾斜は、城塞が築かれた山の岩盤の傾斜をそのまま利用している。少し崩れているが、下側左から中央にかけて、守備兵用の胸壁が築かれているのがわかるだろうか。胸壁から射撃時に頭だけ出して狙いをつけ、斜堤を登ってくる敵兵をマスケット銃で狙撃した。突破された場合、守備兵は門壁の小さなドアから門内に収容される。城門の上にも胸壁が設けられている。
最も重要な点は、背景に見える高地である。この高地はブザンソン・シタデルより標高が高く、城を見下ろせる。この高地を敵に制圧され、そこから砲撃を受ければ、難攻不落のように見える城塞も、実は非常に危うい状態になる。実際、スペイン・ハプスブルク家の兵が籠城し、ヴォーバンが攻囲した際も、この高地と、この写真の背中方向の高地から砲撃を加えることによって、城を陥落させている。とくに向こうに見える高地は比高差が大きく、ブザンソン・シタデルにとっては旅順港の203高地のようなウィークポイントとなっている。ローマ人が目をつけたように、大砲の発達以前は難攻不落の地形であったが、一定の飛距離を持つ砲が登場すると、この城塞の防御力は一気に大きく後退してしまった。
このため、ヴォーバンは、占領後自らの手でブザンソン・シタデル周辺の高地も要塞化し、戦術要地を敵に攻略させない工夫をした。稜線に見える建物がそれである。また敵に高地を陥された時の用意に、traverse(横堤)と呼ばれる「弾避け」を設けて、砲弾による被害を軽減する改良をした。写真にも石組みとレンガ組の二種類のtraverseが見えているのだが、分かるだろうか。

ブザンソンの城塞に立って旅順を思う

2010/01/11


日本の城郭で言えば大手門に相当するであろうか。侵入者は、この地点に至るまでに、天然の地形を利用した長大な斜堤、即ちなんの遮蔽物もない数百メートルの距離のダラダラした上り坂を、立体的な十字砲火を浴びて大量の犠牲を強いられつつ、登ってこなければならない。途中、銃火で反撃したとしても、敵を見上げての射撃は威力を殺がれるし、しかも守備兵は胸壁に隠れ、効果的な打撃を与えるのは難しい。
さらに、ダラダラ坂を突破して敵の守る胸壁を飛び越え、敵陣に踏み込んだと思うと、そこには巨大な壕が待ち構えている。飛び込んで来た兵士は、勢い余って前に落ちれば死ぬし、立ち止まれば十字砲火に晒される。何とか死なずに壕に飛び込めた兵士も、同様に周囲の胸壁から十字砲火を浴びる。
写真に掲げたブザンソン城塞は、17世紀から18世紀にかけて、ヴォーバンの手で今日の姿に築かれたものだ。要塞はその後も進化し続け、日露戦争時の旅順要塞も、これに比べればはるかに効果的な防御が可能な施設として建設されている。目も眩むような壕を見下ろしつつ、旅順攻略に加わった将兵の苦闘を偲んだのであった。

「帝国古代文化研究会」!?報告

2010/01/11

1月9日土曜、新宿歌舞伎町の某社会議室にて「帝文研」の1月例会を開催。
発表は以下の通り。

  • 岡安光彦「壬申の乱の武器と兵士」
  • 太田博之「群馬県の「積石塚」をめぐって」

「渡来系」という語の適否は置いて、「渡来系」とされる集団の動向を一地域あるいは一時期に絞って捉えるのではなく、5世紀から7世紀にかけての列島全域、欲を言えばさらに半島まで含めた極東規模での、ダイナミックな歴史的動きとして観察すれば、いろいろ面白いことが浮かび上がってくるのではないか、という気がした。九阪の試みはどうしても西に偏り、何より「渡来系」の多い東国の動きを十分に掌握できないので限界があったと思う。歴博なんかが音頭をとって、広範な時空間に渉る一大シンポジウムをやったら面白いと思うのだが、さて。

次回の「帝文研」月例会は2月13日14時から、新宿歌舞伎町の某社会議室で。
発表予定は以下の通り。

  • 新井 悟「古墳出土の六朝〜隋・唐の鏡について」
  • 宮代栄一「貝製雲珠・辻金具」

なお「帝文研」は考古学的にかなりマニアックな、しかもまだ表に出し切れないレアな段階の話を、研究仲間に聞いてもらい、反応を試したり、アドバイスしてもらうための純粋に内輪な集まりですが、それを承知で参加希望される方は、岡安までご連絡ください。とくに「反省会」における会話は、さらにマニアックかつスリリングなものとなり、刺激に満ちています。

ブログの「仕分け」?

2010/01/10

「考古学と軍事史の観点から日本と日本人を考える」というこの『野帖』の趣旨から離れた文章や写真も扱ってみたいなということで、その類いの話題は『鶉島日記』の方に綴っていきたいと思います。暇を持て余しておられる方は時々どうぞ。

ブザンソン城塞(その2)

2010/01/05

 ブザンソンを首都とするフランシュ=コンテは、スイスと国境を接するフランスの東の端にある。北に隣接するアルザスと同様、もとをただせばアレマン人の居住地であり、ハプスブルク家の領土であったが、三十年戦争を経て、ルイ14世の時期にフランスの侵略を受け、アルザスと同じようにフランスに編入された。スペインハプスブルク領であったフランシュ=コンテの領有をめぐっては、戦術要地であるブザンソンの攻防が繰り返されたが、その時にフランス側で活躍したのがヴォーバンであり、ブザンソン城塞に立て籠ったスペイン軍を攻城し、打ち破った。現在の城塞は、その時の戦訓を生かして、ヴォーバンが作り直したもの。詳しくはまた。

ブサンソン城塞 Citadelle de Besançon

2010/01/03

L'oeuvre de Vauban à Besançon
アップロード者 aeromedias. –

ブザンソンへはコルマールからリヨン行きのTGVで2時間足らず。
ヴォーバン元帥が築いた多数の要塞群が残っていますが、今回はその中核となるブザンソン・シタデルのみに絞って日帰りで見てきました。生憎の雨模様(滞在している間、欧州の天気はずっと大荒れで参りました)でしたが、どうにかざっと歩いてきました。
分かりやすい動画が見つかったので、まずはそれを。フルスクリーンで見るとなかなか迫力があります。
断崖絶壁が多いので、高所恐怖症の方には厳しい遺跡かもしれません。かく言う私もカメラを構えながら何度か目眩に見舞われました。

謹賀新年

2010/01/02

明けましてお目出度うございます。
暮からしばらく渡仏しネットから(かなり意図的に?)離れておりました。
帰りにフランクフルトから乗ったルフトハンザは何時もよりずいぶん南よりに飛んで、遼東半島を掠めソウル南方で朝鮮半島を横切り、大阪湾を経由して遠州灘から大回りして成田に降りるというコースを辿りました。おかげで見事な富士山を堪能することができました。機長のサービスだったのかも。
あちらでは、有名なブザンソンのシタデルをはじめ、ヴォーバン設計の要塞群をいくつか見てきました。近々報告いたします。
ところで、来週9日(土曜)はかの「帝文研」の例会です。

帝文研(第3回)

2009/12/06

今回は宮代氏から『栃木県足利公園古墳及び熊本県稲荷山古墳出土遺物の検討』という発表。氏が最近実査した新知見の報告とその分析が中心。足利公園古墳については、これまでTK209という認識があったが、TK43の遺物も間違いなく含まれることが確認できた。二時期以上の追葬がある。熊本県稲荷山古墳出土遺物もほぼ同じ時期つまりTK43からTK209にかけての少なくとも二組の馬具。
 内山氏がいうところの舶載品ラッシュの時期の馬具は、次の変化段階を辿ることを改めて確認できた。たとえば5棘系の棘葉形杏葉でいうと

  1. 舶載品段階(熱田神宮蔵品)
  2. 倭系化が始まった段階(今回の両古墳)
  3. 完全に倭系化した段階(笊内37号横穴)

という順番になる。気をつけなければいけないのは、この三段階の変化が馬具の諸系列全体でパラレルに秩序正しく進行するのではなく、それぞればらばらに進むことだ。この点を踏まえて六世紀から七世紀はじめにかけての馬具の多様な変化を捉えないと、桃崎氏が陥ったように全く整理不能、収拾のつかない悲惨な事態になる
 さて、反省会はこれまでと趣向を変え、というか予約し損なったので、近くの サブナード地下街にある超庶民的な居酒屋で。次回の帝文研は1月9日、不詳私が壬申の乱の兵器と兵員について、太田氏がたぶん埴輪について発表する予定。壬申の乱に関しては宮代氏の食いつきが今ひとつであったので、少し工夫してみたい。

17世紀の要塞都市

2009/11/29

vauban
 週末は山形のY先輩を訪ね、女性シェフのお店でロースト・ラムを肴にしこたまワインを飲んできた。流石にこの歳になって気持ちが悪くなるほどまでは飲まないけれど、久々に記憶が飛んでいて、気がついたらホテルのベッドの中に居た。いやはや、ありがとう御座いました。
 この暮も母を訪ねる旅に出る。まあ年寄りの愚痴と小言を聞きにいくようなものであるが、せっかくなので例に寄って近くの戦跡を訪ねてきたいと思っている。昨年は、ヴォーバン元帥が構築した星形の要塞都市ヌフブリザックを訪ねてきた。母がいるコルマールの町の隣にある地方都市だが、地元の住民はほとんど関心を持っていない。これまで連れて行ってくれと何度か頼んだが、「あんなところ詰まらん」と却下された。しかたなく自分でバスに乗って訪ね、やはり凄いじゃないのと感心させられた。帰国後、その年に世界遺産に登録されていたことが分かった。地元民より、極東の一軍事オタクの方がその価値をよく知っていたわけである。今回は、ヴォーバン元帥の残した要塞群を世界遺産に登録するにあたって主導的役割を果たした都市であるブザンソンを訪ねてこられたらと考えている。

絶滅危惧種としての発掘調査技能者

2009/11/28

hashizume
先日、明大同窓の某氏と話をした折、我等が母校の卒業生でちゃんと発掘ができる年齢層は何歳くらいまでか聞いたら、30代後半以上だという。それ以下の年齢層になると、発掘調査ができる人間が激減してしまうそうだ。それというのも、15年くらい前から大学の実習として発掘をしなくなったこと、また大学生がアルバイトで発掘に参加できる機会が大幅に少なくなったからであるという。かつてのMJ大学は、東大や京大といった偏差値の高い大学と違って、学者を育てるというよりは、発掘調査員養成機関としての側面が強かった。そのMJ大学で発掘調査の技能を習得できなくなっているくらいだから、このまま行くと、発掘調査技能を有する人材は層としては消滅し、これまで蓄積してきた技能の継承者は、かろうじて点的に残る存在と化し、絶滅危惧種となっていくに違いない。

我々が学生の頃は、夏になると30日間程度の大学の調査に出るのが普通だった。だから、3年生までには少なくとも90日間位の現場経験を積んで、一から発掘の技能の基本を磨かされていた(4年生の夏は卒論で現場に出なくともよかった)。この他にさらに、考古学専攻生の多くは近県の自治体が掘っている現場や、整理作業などのアルバイトに従事しているというのが普通だった。たとえば私の場合も、埼玉県さきたま資料館に出入りして、大学の授業はなるべくサボって大半の時間を発掘や整理作業に費やしていた。二年生の時の埼玉県八幡山古墳の調査では、関東ではじめての夾紵棺の赤い破片が石室の隅から出てくるところ居合わせた。三年生の時には、当時資料館の学芸課長をしていた故小川良祐氏と酒を飲んでいるところへ、元興寺から稲荷山古墳の鉄剣から象眼銘が出てきたという第一報が入って、その後の大騒ぎをつぶさに目にすることになった。3年生の冬は、ついには現場をひとつまかされて、当時まだ見つかっていなかった須和田式の住居址にぶち当たった。まあ、私の場合はちと派手だけれど、考古学専攻生の多くは、卒業するころには、かなり発掘の実戦経験を積んでいたのである。そして院生ともなると、準備と後始末にも関わり、発掘調査全体のマネジメントを学ぶことになった。

さて、この五年間くらいの間に、官民の区別無く、いくつかの現場でドッヒャーというもの凄い発掘の仕方を目撃してきた。たとえば、一つの調査区内で、何層かの確認面を、同時に掘るとか(理解できますか?)。北陸の某県埋文センターの現場では、右の端から掘ってきたある時期のの面と、左の端から掘ってきたその前の期の面とが調査区中央で衝突し、双方の遺物が混じり合っていた。また南関東の某民間企業の現場では、同じ調査区で、何層もの面を同時に掘り、たとえば古墳時代の住居址と弥生時代の住居址を、左右から掘って互いに衝突し、それぞれの担当者が困惑していた。あるいは、某現場ではジョレン掛けをして多数の遺構が現れたたばかりの調査区を調査員自らが水浸しにし、さらにその上を平気で長靴で歩いてぐちゃぐちゃにしていた。少し発掘を知っている人間なら、発狂しそうになる現場が次第に増えているのではないかと思う。そしてそれは、発掘調査技能者を育てるシステムが消滅しているのだから、当然のことといえば当然である。見よう見まねならまだ良し、何の知識も技量もないまま遺跡を掘り、それを「経験」とせざるを得ない「調査員」が、すでに第二世代に入ってきているのだ。

資格を作るのもいいけれど、その前に、発掘調査技能者を育てるシステムが必要なのではあるまいか。

2009/11/26

hasi
一週間ぶりに茨城の発掘調査現場へ。竃じゃなくて炉が出たという。どれどれと見ると……そりゃそうだろう、可愛い器台に台付甕が出ているじゃないの。プランだけ確認した別の隅丸方形の住居址からは、ややや……縄目の入った(ただし縄文土器じゃない)土器が見える。私の手に負えそうにないので、土器屋さんに出動を依頼することに。電話で聞くと、この辺りのこの手の土器は難しいんだって。勉強になるなあ。縄文中期の遺構もかなりあって、久しぶりにアタマダイとカソリEのお勉強もしてしまった。松丸氏にさらなる細分を教わったが、あまり頭に入らない。周囲には夢のような眺望が広がっている。

難台山

2009/11/23

kasama2

筑波新治を経て幾夜か

2009/11/15

kasama
今週は古事記ゆかりの地で開始した調査現場へ。理想の実現に向けて一歩を踏み出す。