関東圏の埋文市場(平成23〜25年度)

 

以下は三年ほど前に、誰でも入手できる公開資料をもとに個人的に分析してみた、関東圏における埋蔵文化財調査市場の動向をまとめたものである。三年後の現在では、市場から離脱したり廃業してしまった企業もある。三年前の見通しは、どの程度的を射ていただろうか。

1.市場占有率

全国

 公益社団法人日本文化財保護協会が平成23年にWeb Siteに公開した資料に基づくと、支援業務を含む発掘関連企業は全国で80社が加盟しており、その総売上は年間160億円という。報告漏れの売り上げや、同協会に未加盟の組織を含めても、発掘調査関連市場は、200億円程度の規模とみてよいだろう。市場規模としては、ぬいぐるみ(192億円)やトマトケチャップ(187億円)、ゴスロリ(200億円)などと同程度のニッチな市場で、マヨネーズ(1000億円)や豊胸術(855億円)、麻雀(522億円)には遠く及ばない。ちなみに建設業の市場規模は52兆円であるから、計算を間違えていなければ、その0.04%ということになる。

 市場占有率を上位から見ると、安西工業(20億・市場占有率12%)・国際文化財(15億 9%)・パスコ(9億 5%)・ 大成エンジニアリング(8億 5%)・ 島田組(8億 5%)と続き、上位12社で売上の三分の2を占めることがわかる。売上高は平均2億円だが、これを超える企業は四分の一の20社に過ぎない。規模は格段に小さいが、市場構造はゼネコン業界に似ているといってよいだろう。

関東圏

 上記協会の平成25年資料などによれば、支援業務を除く関東圏の発掘調査市場を概観すると、総売上は年間40億円前後で、玉川文化財研究所(5億/関東圏占有率14%)と毛野考古学研究所(3.5億/10%)の2社が抜けだしている他は、2億円前後の企業が10社余り頭を並べている。なお国際文化財やパスコなど、全国展開している企業については推定による。

玉川文化財研究所のトップは、周知のように、神奈川の強固な地盤による。毛野考古学研究所は、最近まで2億円前後の「どんぐりの背比べグループ」に属していたが、短期間で着実に売上を伸ばし、それから一歩抜けだした。どこで、どのようにして売上を伸ばしたのか、注目すべき企業である。

2.市場の地域性

 文化庁統計(平成23年度)に拠れば、民間開発市場として規模が大きいのは、東京・千葉・神奈川の3都県で、合わせて20億円余となる。民間発注される茨城県の市町村公共事業も3億円規模の市場である。これら4都県が差し当たって大きな市場となっている。

支援業務を除く東京の民間市場(便宜上JR等を含める)は、概ね10億円規模(平成23年度)で、原因者には大企業の比率が高い(4億/4割)。首位テイケイトレードの市場占有率は25%程度、四門がこれに続き20%前後である。いずれも本業への信用を都内のシェアに繋げていると考えてよいだろう。武蔵文化財研究所・加藤建設など古参企業も強く、新たに参入を図る企業もある。市場の動向は流動的で予断を許さない。

千葉の民間市場は5~6億円で、原因者には大企業の占める割合が高く(2億/4割)、平均額が大きいのが特徴である(1件あたりの調査費用の平均額は、千葉2000万円、東京900万円、神奈川700万円)。

千葉および茨城市場の最大の特徴は、単価の低さである。このため、一部の業者以外は参入が難しい。逆に言えば、この地域の厳しい価格競争に耐えられる生産性を有する企業は、他の地域でも優位に立てる。毛野考古学研究所が売上を伸ばしている理由もそこにある。

3.各社の生産性の比較

いくつかの指標から、関東圏の発掘調査企業の生産性を比較する。

1人当り売上額

 支援業務を含めた、社員1名当りの売上額を関東圏の企業に限って比較すると、上位からテイケイトレード(3,000万円/人)・国際文化財(2,400万円/人)・大成エンジニアリング(2,000万円/人)となる。これに続いて1,500万円/人前後の企業が10社ほど並ぶ。なお極端に低い額の企業に関しては実際の数字を報告していない可能性がある。

テイケイトレードの一人当り売上額が大きいのは、規律の厳しい企業風土に加えて、5S活動などモノづくりの知恵を取り入れた、一連のカイゼンの結果と考えられる。

毛野考古学研究所の1人当り売上額がやや低めであることは注目される。この数値を見る限り、生産性はそれほど高くはないことになる。

1人当り調査面積

 1人当り調査面積を比較すると、千葉・茨城の小さな企業が物凄い数字を出していることが分かる。きわめて生産性が高い、ということになるが、それ以上のことは、ここでは述べないでおこう。いっぽう、数字を確かめられなかった千葉県の勾玉工房を除くと、都内の四門が関東圏で最下位となる。江戸期を掘ることが多いことを差し引いても、著しく生産性が低いことになる。調査対象がほぼ重なるテイケイトレードが、四門の倍の面積を掘ることと比較すれば、それは明白である。生産性の低さを営業力でカバーしていると判断してよいだろう。

現状では、従業員1名あり500平米前後というのが、調査業界の平均値である。毛野もそれに近い。なお関東圏に関するデータの無い国際・パスコは比較対象から除いた。

質を落とすことなく、むしろ精度を高めつつ、調査員1人当り調査面積を増大させていくことが、この市場の勝者となるための鍵のひとつとなることは間違いない。

総資本回転率

 資本力のない企業は極端に総資本回転率が高い。効率が良いからではなく、自転車操業を要求されるからである。この業界の大半の企業にいえることであるが、関東圏で占有率を誇る企業のなかにも、キャッシュフローの面では脆弱性を抱えているところが少なくない。これに対して、キャッシュフロー面で力があるのは、パスコとテイケイトレードである(パスコは大手測量会社として他の発掘調査会社とは文字通り桁違いの資本金を有しており、テイケイトレードが所属する帝国警備グループは、日雇い労働者への支払いのため常に大量の現金を保有している)。

4.毛野考古学研究所をめぐる分析

毛野考古学研究所は、今はなき山武考古学研究所から派生した、群馬に本社のある発掘会社である。既に述べたように、目覚ましいといってよい成長ぶりを示しており、今後もそれはしばらく続くであろう。同業者は学ぶべき点が多い。以下、その強みと限界を整理してみる。

強み

  • 前の職場で業界の裏表を知り尽くしたトップが、周到な陣頭指揮を取っている。
  • 発掘調査の質とスピードは、調査員の個人的能力に一義的に規定されてしまうのが現状だが、トップが優秀な調査員を見定めて採用し、最適な現場に配置している。調査員の教育にも力を注ぎ、日々その能力に磨きをかけている。
  • 発掘ができれば本望という調査員を、高給とはいえずとも人生設計できる賃金で安定的に雇用し、発掘や考古学をめぐる価値観を共有して、巧みに組織化している。
  • 地方都市の(とはいえ都心にすぐ出られる)郊外に作業所を設け、固定費と作業員人件費を抑えている。地方なら調査員たちも経済的に生活しやすい。
  • トップが、埴輪研究者として学界に広いつながりを持ち、学問的に信用されている。
  • ○○と異なり、基本的にアコギな商売はしない。この点でも信用されている。
  • 厳しい価格競争に耐えられる体制を巧みに組織し地方展開している。

限界

  • キャッシュフロー面で、にわかには企業規模を拡大できないだろう(時間の問題だが)。
  • あくまでも古いタイプの考古学と発掘調査に立脚している(それが強みでもある)。
  • 地方都市への居住(現場は別として)を嫌う研究者には向かないかもしれない。

5.若干の所見

支援業務を除く埋蔵文化財調査市場の、関東圏における規模は、現状では40億円前後であるが、オリンピックを控え拡大するとみられる。

民間とくに大企業やJRなどの大組織に関わる案件では、発掘調査会社の信用が非常に重要になる。その点が、四門やテイケイトレードなどの強みであり、都内では一歩先んじてきた。ただし、パスコや国際文化財などの大企業やその傘下の企業も、その気になればそれ以上の強さを発揮できる。競合他社が増えれば、やはり金額がものをいうことになるだろう。どの企業も、発掘調査の質とスピードを、今以上に要求されることになるに違いない。毛野考古学研究所や玉考古学研究所などが、強みとする古典的で確実な発掘調査の力で市場専有率を維持し拡大していくのか、それとも測量会社や建設会社が、本来のコア技術を柱に、近代的なプロジェクト型発掘調査の仕組みを構築してこれに対抗していくのかいけるのか。埋蔵文化財行政が、それとどう関わっていくのか。発掘調査民営化の真価が問われていくことになるだろう。

 

 

考古学研究者の人口動態(2011年段階)

 

以下は、先の「発掘調査員の人口動態(2011年段階)」と同じ時期に、続けて記した一文である。参考にしていただければ幸い。

 

はじめに

先に報告したように、文化庁統計をもとに埋文専門職員の人口動態を分析すると、若年層の急激な減少と非正職化に加えて、発掘調査員の資質劣化が同時進行するという、文化財行政の黄昏とでもいうべき寒々とした現状が浮かび上がってくる。

ところが、日本考古学協会員の人口動態を分析すると、それとは裏腹に、若手研究者の増加と活躍という、明るい景色が見えてくる。

こうしたギャップは、なぜ生じているのでろうか。またそれは、今後の文化財行政あるいは考古学界に、どのような影響を及ぼすのであろうか。

以下、2010年度版会員名簿のデータをもとに、考古学研究者の人口動態を分析して、そこから見えてくるいくつかの状況を整理してみる。

ギルドから学会へ

日本考古学協会は1948(昭和23)年に、登呂遺跡の発掘を当初の目的として、明大の後藤守一と杉原荘介が中心になって設立した組織である。1970年代頃までは、会員資格が一種のステイタス視され、若手研究者の入会を阻む雰囲気すらあった。とくに地方ではその傾向が顕著で、2~30代で入会するのは「生意気」と見なされる、学会というよりも、ギルド的な性格の組織であった(一部には、まだその頃の意識が残っているかもしれない)。

しかし、1980年代から次第にそうした結社的な雰囲気が後退し、会員数が増加していく。1995年に論文誌の『日本考古学』が刊行され始めると、それを機にさらに学会としての色彩が濃くなる。とくに近年、若手研究者の間で査読論文執筆歴の必要性が高まり、『日本考古学』が発表の場として重視されるようになると、その傾向が顕著になった。現在では、『考古学研究』や『考古学雑誌』を抜いて、『日本考古学』が最も権威ある学術誌と認められるようになり、多少とも野心のある若手研究者が国内で研究生活を進めていくためには、最低限入っておかなければならない学会となっている。このため、運営には古参研究者が当たっているが、研究主体はすでに若手研究者に移行しているとみてよい。

以上のような経緯もあって、日本考古学協会メンバーは、大きく三つの年齢グループから構成されている。最古参グループは、1970年代頃までに入会した、協会員であることが「特権」であったころからの生き残り層である。各地方で長老としての役割を担っている。次いで80年代~90年代に入会した年齢層が、学界や行政組織の中核をなすグループである。さらに、2000年以降に入会した年齢層が、若手研究者によって構成されるグループである。

実は元気な若手研究者たち

先の発掘調査員をめぐる文化庁統計で、最も元気のない年齢層が、最後の若手研究者層に相当する。

ところが、この年齢層の研究者としての動きは、考古学協会入会者数を見る限り、極めて旺盛で活発であることが分かる。黄昏の文化財行政とはうらはらに、若手による考古学研究は、むしろ隆盛の勢いを示しているといえる。しかも、文化庁はもとより、大学サイドも、自分のことだけ考えるあまり、それに気付いていないようだ。

考古学研究者としての就職口が無い、あっても非正規雇用という厳しい現実を前にしても、若手考古学者の研究意欲は衰えるどころか、前向きである。しかも以前にくらべて、活動の範囲を海外に広げる研究者が多いのが、このエイジ・グループの特徴である。

研究への意欲満々の若者たちは、やはり大都会や研究の中心地に集まっている。棒グラフの右側を占める若手研究者層やその兄弟子筋に当たる元気の良い若手研究者は東京をはじめとする首都圏に圧倒的に集中している。それに次ぐのが、関西圏や福岡である。

民間企業が、元気な若手グループをリクルートしたいなら、首都圏のそれを対象とするのがもっとも手っ取り早く効率がよいということになる。にもかかわらず、首都圏に集中する発掘調査企業のほとんどが、彼らの活気を取り込むことに成功していない。当然のことながら、彼らが求めるものを提供できていないからである。何が欠けているのであろうか。

埋文行政の黄昏のなかで、考古学界にあって最もエネルギッシュな若いエイジ・グループの力を、どのように引き出し、どのように活用していくのか、いけるのか。それが、これから民間調査企業が成長していくための、一つの重要な鍵となるだろう。行政の拙い下請けとして、昔ながらの発掘調査をしている限り、若くて優秀で、元気一杯の考古学徒を引きつけることは到底できだろう。それだけは間違いない。

発掘調査員の人口動態(2011年段階)

われわれは未来について、次の二つのことしか知らない。

  1. 未来を知ることはできない。
  2. 未来は、今日存在しているものや、今日予測しているものとは違う。

この公理は、とくに新しいものでも驚くべきものでもない。しかし、次のような極めて重大な意味をもつ。

  1. 今日の行動の基礎に、未来に発生する事象の予測を据えても無駄である。せいぜい望みうることは、すでに発生してしまった事象の未来における影響を見通すことだけである。
  2. 未来は今日とはちがうものであり、かつ予測のできないものであるがゆえに、逆に予測せざることや予期せざることを起こさせることが可能である。

もちろん、未来に何かを起こさせることには、リスクが伴う。しかしそれは、合理的な行動である。何も変わらないという居心地のよい仮定に安住したり、起こるに違いないことや、最もおこりそうなことについての予測に従っているよりも、かえってリスクは小さい。

………………………………………………………

社会的、経済的、文化的な大きな出来事と、そのもたらす影響との間には、時間差がある。出生率の急増や急減が、労働人口の大きさに影響をもたらすには、15年から20年を要する。しかし、変化はすでに起こっている。

………………………………………………………

すでに起こった未来は、体系的に見つけることができる。まず第一に調べるべき領域は、人口である。人口の変化は、労働力、市場、社会的圧力、経済的機会の変化にとって最も基本的である。

人口の変化は、通常、最も逆転しにくい。しかも、その変化は、非常に早くその影響を現す。出生率の上昇が、小学校の施設に対する圧力となって現れるのは、わずか五、六年後である。そして本当にそれは起こる。その影響も予測しやすい。

ピーター・ドラッカー『創造する経営者』

 

以下の文は、5年前の震災の年、上記ドラッカーの一文を念頭に記した、あるレポートの一部である。

はじめに

文化庁統計によれば、埋文専門職員の総数は、2000(平成12)年の7,111人をピークに減少に転じ、2012(平成24)年には5,868人まで数を減らした。毎年100名ずつ、12年間で1,200人余、2割近く累減した計算となる。この傾向が続けば、オリンピック開催の2020年には、専門職員数は5,000人近くまで減少する見通しとなる。

いっぽう、発掘調査も、1997(平成9)年の総費用1,321億円をピークに減少に転じ、2012(平成24)年には524億円と盛期の40%まで下落した。しかし、震災復興、アベノミクス、オリンピック特需などの影響で、ピーク時ほどではないにせよ、少なくとも今後数年の間は、必要とされる発掘調査の総量が、増加傾向に転ずると予測される。

ところが、発掘調査を担う専門職の総数を短期間で増員することは難しい。そのため、遠からずして発掘調査員の不足が顕在化し、遺跡の調査が開発のスピードに追いつかないという事態が、とくに開発・再開発の進む地域で生じる可能性が濃厚である。

問題は、その際、調査員不足がどの程度まで深刻になるかである。そこで以下、データが公開されている2007(平成19)年度の文化庁統計を主な材料に、発掘調査員の人口動態を検討してみる。右下のグラフは年齢層ごとに、各職位の数を集計したものである。

1.若年層の減少と非正規化

就職氷河期以降の世相を反映し、埋文専門職でも雇用の急激な減少、非正規職化が進んでいる。若い世代では県職・市職ともに、雇用の絶多数が上の世代に比べて半減、ないしそれ以下となり、しかもその大半が非正規の嘱託職員で占められるようになった。その多くが、35歳を境に埋文の世界に見切りをつけ、他の一般的な職業を求めて去って行く。

同じ専門職にカウントされていても、非正規職と正職との身分差・待遇差は顕著である。とくに都道府県の埋文センタ-では、作業員以下の極端な低賃金で、調査「補助員」という名の下働きとして便利使いされるのが一般的である。ひとりの独立した調査員として、一貫した体系的な教育訓練を受けることもあまり望めない。このことが、若手人材が独り立ちした一人前の調査員として育ちにくい、一つの要因となっている。

このようにして、おおむね35歳までで使い捨てにされる非正規職の穴を埋めるのが、余剰教員層である。専門知識のない教員が、正職として調査を主導し、考古学を専攻した非正規の調査補助員が、その下働きに甘んずるという、専門性の逆転現象が生じることも珍しくない。こうした事態も、若手人材が調査員として成長する妨げとなっている。なお、発掘に投入される教員の中には、考古学を専攻した研究者も含まれるが、人口動態に影響を与えるほどの数ではない。

2.主力となるバブル世代

現在の埋文専門職員の最多数を占めるのが、いわゆるバブル世代である。経済バブルと発掘バブルにはタイムラグがあり(バブル後の公共投資のため)、後者は1990年代後半まで続いた。このため、埋文界におけるバブル世代の年齢構成には、かなりの幅がある。グラフの30代後半~40代、現在の40代~50代前半が、おおむねバブル世代に当たる。考古学協会総会の入口に各地の教育長が並んで、教授たちに専門職の斡旋を哀願した時代に採用された世代である。

具体的な数字を示すと、1989(平成元)年~1994年の5年間の間に、54大学を卒業した2339人のうち555人(24%)、34大学院を修了した347人のうち133人(36%)、合計2713人中608人(25%)が自治体に採用されている。

要するに、考古学専攻生でありさえすれば、誰でも専門職に就職できた。このため、この世代では個人的な能力差が顕著である。発掘調査の教育訓練をほとんど受けたことのない「専門職」が、この世代のかなりの割合を占めている。団塊の世代は既に退職し、しらけ世代層も退職していくなかで、このバブル世代が、埋文行政の中核を担いつつある。

3.大学の教育能力の低下

埋文業界は、統計データに現れない問題も抱えている。さまざまな理由で、発掘調査実習のない大学が大半になったからである。発掘実習で学生を現場で訓練して送り出しているのは、阪大やその系列下の大学など、ごく一部に限られるようになった。このため、若い専門職の多くが、畳の上の水練のみで、発掘現場に投入されている。しかも、その指導教育に当たるのが、先のバブル世代である。発掘調査員は、員数的な再生産が難しいばかりではなく、質的な再生産も危機的な状況に入っている。

統計を取っている以上、文化庁もこの事態を認識しているはずだが(職位別年齢構成のデータを公表しなくなったのはその表れか?)、「各自治体は専門職の採用を増やすべきだ」という一般論を表明しているだけで、具体的にそれをどう実現していくかという方策については、全く何も打ち出していない。いっぽう、大学教員にいたっては、こうした問題に関心が薄い。

4.民間から行政への人材流出

発掘調査員の人口構成は、この数十年間の流れのなかで生み出されてきたものなので、短時日でこれを変化させることは難しい。今後、必要とされる発掘調査の量が増加傾向に転ずれば、調査員の絶対数が急に不足することは目に見えている。いっぽう文化庁にこの問題を解決する積極的な意志があるようには見えない。したがって、遠からず調査員の奪い合いが起き、民間調査機関にとって深刻な事態が生じる。なぜなら、若くて優秀な人材から順に、行政機関に奪われていく可能性が高いからである。行政は遠慮なく民間の人材を引き抜くであろうし、文化庁も、大学も、それを喜ぶことはあっても、悲しむことはないにちがいない。

発掘調査要員の確保は、すでに多くの発掘調査企業にとって大きな課題となっているが、遠からず事態はさらに深刻化する。そう予測した方が懸命である。問題が顕在化する前に、何らかの手を打っておく必要がある。

とはいえ、どんな準備をしたにしても、行政と正面切って人材を奪い合うなら、民間企業に勝ち目はない。そうではなく、遺跡の緊急発掘というすでに定着した社会システムが、調査員の不足のために機能不全を起こさずに済む、民間企業ならではの知恵を提示し、産官学が手を携えて問題解決に当たっていくための契機とすべきである。まちがいなく予測される発掘調査員の不足を、民間企業にとっての好機に転ずるのである。

測量会社が拓く発掘調査の未来?

今、私は金沢市の北、能登半島の付け根の海岸地帯で、幸せな発掘調査に従事している。神奈川県に在住し、厚木基地に飛来するF18やP3Cを見上げて暮らしている私が、なぜ石川県で古代の遺跡を掘っているのか?それは新幹線の延伸に関わっている。金沢まで開通して脚光を浴びた北陸新幹線は、京都までの延伸が急がれている。石川・福井両県では、そのための発掘調査も急ピッチで進められており、両県教委傘下の調査組織は対応に追われている。県の調査組織が手一杯で、市町村に声がかかり、それも手一杯で民間企業に声がかかり、民間の調査員も払底し…そうした玉突き衝突が幾重にも生じて、ついには私のような者にもお声がかかった、という次第である。

私に声をかけてくださったのは、社長自らも操縦桿を握るという、航空写真測量のプロフェッショナル企業である。ということもあって、私と組んで調査に当たる調査補助員にも、測量士の方が配属されている。世界各地の計測プロジェクトに参加されていたという、文字通り「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」の世界のベテランである。発掘調査の仕様書には、考古学系の調査員の卵がその任に当たることになっていたが、遺跡調査員系の人材が払底していることから、完全にオーバースペックといえる、測量のプロが代行する形である。この方の他に、私と同年輩の温厚な(これは現場の和を保つのに大切)施工管理技士、という贅沢な三人体制で調査を開始した。その後、市教委の配慮で設計変更となり、調査補助員として本来なら主任調査員に当たれる方が充当されたので、現場は贅沢の上に贅沢が重なった、申し訳ないくらい幸せな発掘調査体制となっている。

さて、仕様書では、土層のセクション図や遺物出土状況の微細図などは、調査補助員が紙を使って手実測することになっていた。しかし、せっかく測量のプロがいるのである。そこで、市の担当者の方と相談すると、全てデジタルな手法で計測しても良い、ということに落着した。

そういうわけで、大半の図面が、その日のうちに出来上がっている。調査日誌に、その図面が貼り付けてある。図面台帳や遺構台帳、遺物台帳などのデータ管理もしてもらえる。という、殿様発掘をさせていただいているのが、現在の私の境遇である。不満を言ったらバチが当たるかもしれない。しかし、強いて欲を言うと、それでもまだ測量会社本来の中核的技術を使いきれていないと思う。一つだけ例をあげると、なぜかフォトスキャンを活用していない。うまく使えば、調査がもっとスピーディーになるし、精度も上がる、というか、三次元情報を三次元で残せるはずだ。

これは仕事の出し方にも大きな問題があるのだが、プロ集団である測量会社が発掘に参入しても、従来のアナログな手法に寄り添ってしまって、折角の本領を発揮しきれていないことが多い、という現状がある。今回は、極めて理解ある(というより、むしろ積極的な)クライアントのおかげで、柔軟に対応していただけているから軋轢はなかったが、そうでない場合でも、多少の衝突は覚悟の上で、測量会社のテクノロジー、工学的でシステマティックな手法を、存分に取り入れていく方向に、どんどん推し進めて行って良いのではないだろうか。そうした方が、結局はみんなが幸せになれると思うのである。

朝鮮半島南部という不思議なエリア

「原始和弓の起源」(2015『日本考古学』第39号)にも書いたことだが。朝鮮半島南部は、不思議な弓の分布パターンを示すエリアで、謎に満ちている。

よく知られているように、現在の韓国では、背側に動物の腱、腹側に水牛の角、その間に木を挟んで膠で貼り合わせた複合弓である、彎弓が伝統的な國弓として大切にされている。

ところが、朝鮮半島南端部では、日本の弥生時代に相当する原三国時代に、原始和弓に匹敵する長大な弓が確認されている。紀元前1世紀中頃の慶尚南道昌原市 茶戸里1号木棺墓(国立中央博物館2012)、2世紀前半 頃の金海良洞里21号木槨墓(図4‒25・国立金海博物館 2012)出土例である。それらの木製漆塗り長弓は、不確実には弥生時代から、確実には古墳時代中期から、日本列島の戦士集団の間で一般的に用いられ、その後は平安時代に竹を用いた複合弓へと進歩して、現在の和弓へと繋がってくる、「原始和弓」の祖型となった可能性が極めて高い。

日本の上長下短の長弓が、日本列島固有の弓、と信じそれを証明しようとして調べているうちに、そうした「民族主義的」な期待を見事に裏切られることになった私である。であるが、朝鮮半島南部では、はじめは和弓と類似した長弓が用いられていて、それが百済の滅亡などに伴い、北方騎馬民族系の彎弓に置き換えられた、ということになると、韓国の方々も少し複雑な思いをするかもしれない。日本の古墳時代に一般化する、弓弭の飾り金具、両頭金具も、朝鮮半島南部で列島に先んじて確認されている。

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いっぽう,朝鮮半島南部では三 国時代に入っても、6世紀代の昌寧松峴洞7号墳出土例(国 立伽耶文化財研究所2011)に示されるように、 短い丸木弓も使われていたことが知られている。太平洋西岸の森林地帯では、弓の登場とともに、短い丸木弓が使われていたと考えられ、日本列島の縄文弓と同じ系譜を継ぐものと想定できる。

さらに不思議なことに、弓出現期の北部ヨーロッパ、北極圏、さらに北米大陸に分布が広がるフラットボウが、先の茶戸里1号木棺墓から出土している。東アジアでは、唯一の出土例。

どうやら、朝鮮半島とくにその南半は、ユーラシア大陸中の弓が(たぶんそれに伴う多くの文化とともに)、漂着する終着駅だったようだ。日本列島の戦士たちが、そうした弓(と文化)の中から、お気に入りだけを取り入れて自家薬籠のものとした結果、半島側でそれが廃れたのちも、化石のように日本列島に残ることになった。そういうことらしい。

次の論文を構想中!

発掘調査の民営化は成功したのか?

時の経つのは早いものだ。状況も呑みこめぬまま、発掘調査の民営化に関係する結果となってから、20年が経過した。

さて、それでは、この間に生じた、埋蔵文化財の記録保存、遺跡の発掘調査の民営化は、成功したのだろうか。失敗だったのだろうか。

民間側の当事者の一人として、結論から述べると、完全な失敗ではかったかもしれないが、さりとて、大いに成功した、とはとてもいえまい。そう思う。それはなぜか。

民営化された結果、民間企業が民間企業ならではの特質を活かして、その精度においても、工期においても、コストにおいても、行政機関にはるかに勝る、優れた発掘調査を実現させたのであれば、成功だったといえるだろう。

しかし現実には、民間企業が行政機関の(拙い)代行をしているだけ、というのがこれまでの実態だ。民営化した結果、これまで成し得なかった成果を得られた、ということはまずなかった。もちろん、行政機関側の仕事の出し方にも問題はあったのだが、民間企業が、民間企業ならではの競争と協力を展開した結果、遺跡の発掘調査に革命が起こってしまった、ということにはならなかった。行政機関と似たり寄ったりの、代わり映えのしない従来型の発掘を、ともすれば行政機関より下手くそにやっている。というのが実態である。もしそうであるとすれば、民営化など必要なかったのではないか。

もちろん、民営化に全く意味がなかった訳ではない。とりわけ、民営化がもたらした最大の成果として、発掘調査の安全管理が劇的に改善されたことが挙げられる。このことをめぐっては、多くのゼネコンが発掘調査市場に参入したことが、大きく寄与している。

もう十数年前になるが、新潟県に根拠地を持つゼネコン、吉田建設のレンタル調査員として、発掘調査を担当したことがある。この時、現場で協力しあいながら、施工管理技士の日々の仕事ぶりをつぶさに目にすることになったのだが、安全管理や工程管理、現場での和の保ち方から道具の手入れに至るまで、さまざまな面で大いに勉強になった。ゼネコンとその人材には、こうした業務をめぐって、やはり一日、いやそれ以上の長がある。

ただし、支援業務という枠組みで部分的にゼネコンが入れば、安全管理の必要は満たせる。そうした観点に立てば、業務の一部を民営化すれば十分。調査主体まで民営化する必要はない、という議論もできる。調査主体としての民営化の妥当性を主張したいのであれば、安全管理や工程管理だけでは不十分である。

いっぽう、発掘調査市場に参入している多くの業種の中で、その企業の中核的技術を全く活かせていないと思えるのが、もと社員だった私にいわせれば測量会社である。パスコや国際といった国内最大手の測量会社が、発掘調査に手を出しているが、コアとなる測量技術を活かせぬまま、調査員の数だけ増やそうとしている。その結果、先に書いた通り、行政機関と似たり寄ったりの、代わり映えのしない従来型の発掘に陥りがちで、スケールメリットも含めた本来の力を発揮できないでいる。もったいない話だ(私にも責任の一端があるのだが)。

現在のところ、発掘調査市場に参入したさまざまな業種が、それぞれの中核技術やサービスを競い合って、発掘調査に革命を起こすという望ましい状況には立ち至っていない。これは裏を返せば、何の中核技術も知識も経験もない企業でも、この緩い市場に参入できるということを意味している。調査員(のような人)をかき集めて仕事を取って力技で発掘してしまえば、利益の確保と仕事振りへの評価はともかく、発掘調査企業は名乗れる。

そうした中で、従来型の発掘調査のテクニックや経験を、その技術の中核として保有している企業は、当然のことながら強いし手堅い仕事をする。例えば、埴輪の研究者である長井正欣氏を社長とする群馬県の企業、毛野考古学研究所が、その代表例だ。経営者が考古学研究者だから、調査員に対する目利きもできて、人材の集め方も、育て方もうまい。きっとそうなると思っていたら、やはり企業として確実に成長している。

以上のような、いわゆる発掘調査会社と一線を画して、別の道を進む企業群もある。大半は、それぞれのコア技術、専門知識をベースに業務展開する企業だ。例えば盛岡市のラングとか、名古屋市のCUBICがそれである。ラングは、人工衛星を使って地形を解析するリモートセンシング技術を、考古資料の計測に応用しようという試みから出発したベンチャー企業で、遺物や遺構の三次元計測とその解析をめぐる高い技術力をもとに、実績を広げている。いっぽうCUBICは、トヨタ傘下のアイシン精機埋蔵文化財部門から、ソフトウエア開発と販売を受け継いで独立した、やはりベンチャー企業で、『遺構くんCubic』はよく知られている。

ラングもCUBICも、いずれも独自の技術とノウハウ勝負の企業である。こうした企業群が、しのぎを削って切磋琢磨し、発掘調査に革命を起こしていく、というのが民営化の本来あるべき姿だと思うのだが、残念ながらそうはなっていない。発掘調査の民営化が成功とは言い難いと私がいうのは、そのような意味合いにおいてである。

さて、それでは、発掘調査の民営化は今後どうなっていくのか、どうなって行くべきなのか。それを決めるのは、各々の企業でもなく、行政でもない。社会の要請である。そして今、埋蔵文化財の記録保存という社会システムを危機的な状況に追い込んでいるのが、発掘調査員の絶対数の不足という問題である。ならば答えは簡単明瞭だ。民間企業に課せられた課題は、その問題に対するソリューションとなる商品、サービスなり技術を提供すること、それに尽きる。もちろん、限られた数の調査員を奪い合って、自己企業の業績を広げる、という答えは出てこないはずだ。
少数の調査員で、あるいは成長途中の能力の低い調査員で、精度を下げず、むしろ向上させながら、生産性の高い調査をどう実現して行くか、そのためのサービスや技術をどうやったら提供できるか。今後の発掘調査民営化は、そうした課題をめぐって、企業が知恵と技術で鎬(しのぎ)を削る場とならなければならない。そして、そうなって行くと信じたい。

続く!

弓を忘れた弓の名人

5500年ほど前、(おそらく漢族の人口圧に耐えかねて)アウトリガー・カヌーに乗船し、台湾から太平洋さらにはインド洋の島々に移住して行った人々がいる。オーストロネシア語を話す海洋民だ。西はマダガスカル、東は少なくともイースター島(南米まで渡って戻ってきた可能性が高い、というか間違いない)まで、大航海したことが、学術的に判明している人々だ。
その人々が携えて行ったのが、2m前後、時にそれを超える長大な弓。日本の和弓も、朝鮮半島経由でそれが日本にもたらされた、というのが私の見解である。
不思議なことに、そうした長大な弓を太平洋各地に伝えたオーストロネシア語族であるが、次第に弓を忘れてしまった。例えばフィジー人の場合、長弓を使った伝統的なスポーツがあって、石造の立派な弓道場を建築していたが、弓が戦闘に使えるということはすっかり忘れていた。そのため、フランス人の侵略を受けた時は、その優れた弓で反撃できるということに発想すら及ばす、近代的な銃に対して棍棒で戦闘を挑み、あっという間に制圧されてしまった。ニュージーランドでも、2m近い弓が発掘されているが、現在のマオリ族は弓の存在を知らない。ハワイに至っては、考古学的資料すら今のところない。

オーストロネシア語族が忘れてしまったのは、弓だけではない。古代ポリネシアにはラピュラ文化が栄え、土器が盛んに作られたが、現在では多くのポリネシア人が、土器作りを忘れている。海図もない大海原を小船だけで波濤を超える困難の中で、小錦や武蔵丸、並み居る著名ラグビー選手のあの巨大で頑健な体躯を身につける一方で、土器や弓を作るすべを忘れてしまったのが多くのポリネシア人である。

中島敦の名作「名人伝」の、「至為は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし」という一節を思い出す。

 

妄想軍事考古学、続き

7年ほど前にブログに公開し、さらに4年前に再録した、高句麗VS百済・伽耶・倭連合軍の戦いでは、まるで見てきたかのように(考古学の得意技?)、両者がそれぞれ整然とした陣形を成して衝突した戦闘シーンを「再現」して見せました。しかし今考えてみると、百済はまあ良いとしても、伽耶や倭angaku3がそうしたハイレベルな組織的戦闘ができたかどうか、はなはだ疑問。

高句麗から見ると、伽耶や倭の兵士たちというのは、ローマのカエサルが見たガリア人の集団のような連中だったのではないか。高句麗正規軍の整った戦列に対して、同様の戦列をなして正面からがっぷり四つの戦いを挑むというような兵士集団ではなく、勇敢で精強ではあるけれど、デタラメな人たち。その横で、ほどほどに統制の取れた組織的戦いをする百済軍、みたいな……

その後の「研究の成果」に基づいて考えてみると、百済・伽耶・倭連合軍がどれだけ組織だった戦闘ができたか分からないものの、共通の武器としては(少なくともその一部は)、私が名付けたところの太平洋型長大弓、パシフィック・ロングボウが用いられたのではないか、という推測が導かれます。5世紀段階では、鉄鏃の型式も共有しているし。

いっぽう高句麗にとって、壁画に描かれたような複雑な兵種から整然と編成された軍団が本格的に機能したのは、倭との非対称な戦闘ではなく、燕のような大陸の大国との正規軍戦ではなかったのか。ご先祖様には申し訳ないけれど、そんなイメージを抱く昨今です。

 

遺物用接着剤「ポタグルー」を開発されたお二人

5月の考古学協会では、釜石市教育委員会の加藤幹樹さんや、土器修復家の岩月真由子さんと、釜石市屋形遺跡から出土した、弥生初頭の土器とその修復状況を紹介させていただきました。加藤さんのご尽力で、可愛い弥生土器と、縄文土器も展示できたので、多くの方々に会場で実物を手にとって、優しい風合いの修復・復原に感心していただくことができました。たくさんの研究者の方々から、「今後は、こうした方向しかありませんね」という評価をいただいたことは、裏方としてプロジェクトに関わった者として、望外の喜びでした。お声をかけてくださった皆様、ありがとうございます。

考古学協会会場にてさて、写真は、今回の修復で用いられた、土器用接着剤「ポタグルー」を開発した、岩月真由子さんとウエマツ画材店社長の上田邦介さんのお二人です。いずれ詳しくその業績を紹介しますが、上田さんは、日本画材料を扱う画材店を営みながら材料研究に取り組み、東京藝術大学で講義されるなど、絵画材料学の世界では著名な方です。生産が停止して日本画家を困窮させている和膠に代わる合成膠、アートグルーを、絵画用メディウムとして開発したことでも広く知られています。

この上田さんが開発した代用膠のアートグルーに、土器修復家として目をつけたのが、岩月真由子さんです。アートグルーは、顔料の伸展剤としての性格が強いため、接着剤として用いるには少し水っぽい。そこで試行錯誤の末に土器接合用に最適化した濃度を導き出し、上田さんに依頼して作りあげたのが、土器用合成膠のポタグルー、というわけです。ポタはもちろんポッタリー(土器)からの命名。このポタグルーが、土器用の接着剤として、どう卓越しているかについては、おいおい説明していきます。

ちなみに岩月さんは、もともと彫塑家で、東京藝大、同大学院(塑像研究室)でテラコッタを学んだ後、渡欧してデンマーク、ドイツ、フランスの大学で研鑽を積んでこられた方です。ソルボンヌ大学では、比較言語学を専攻したという才媛。帰国後は、しばらくINAXのライブミュージアム「土・泥んこ館」で学芸員を務めておられました。「百土箱の部屋」は、その時の成果。その岩月さんを見つけて、考古学の世界に連れてきたのが、元愛知県埋蔵文化財センター、現在ニワ里ねっとの赤塚次郎さん、少し乱暴なまとめ方をすると、そんな感じになります。

 

「妄想軍事考古学」その後

ずいぶん前、5世紀後葉に起きた、高句麗と百済・伽耶・倭連合軍との戦いの様子、を妄想した一文は、皆さんに面白がっていただきました。しかし、今だったら、ずいぶん違う書き方になるだろうな、と思います。というのも、日本列島に勢力を有したであろう部族集団の武器、特に弓については、その理解に大きな修正が必要になったからです。さらに、そもそも「倭」って何だ、という問題に、私の容量の乏しい脳みそが悩まされるようになったからです。

妄想軍事考古学「高句麗 vs 連合軍」

さて、いわゆる和弓の原型、その長さや形状はそっくりだけれど、丸木でできた原始和弓については、日本列島オリジナルである、かの一文を書いたときはそう思い込んでおりました。弥生時代の戦乱の中で、縄文時代に成立した小型の狩猟弓が、長大な戦闘弓へと進化した結果、上長下短という独特の形態を有する原始和弓が発生したのであろうと。しかし、弥生時代に弓が長大化し、戦闘弓へと変化したことは事実だとしても、それらと原始和弓との間には、非常に大きなギャップがある。そして一方、原始和弓とその特徴を共有する、長大な漆弓の確実な出土資料は、実は朝鮮半島南部において、日本列島側の時期区分でいう弥生時代に相当する時期に、まず認められる、ということが分かっています。つまり、原始和弓は日本列島オリジナルではなく、その起源は朝鮮半島南部にある、そう捉えるのが、少なくとも現時点において妥当である。

日本列島で、上長下短の長弓が確実に出現するようになり、次第にその頻度が高くなって、ついには正倉院御物のような原始和弓に至るのは、確かなところでは5世紀末以降なんですね。つまり、以前妄想した5世紀末葉における高句麗対百済・伽耶・倭連合軍の戦いがあったとすると、倭軍が上長下短の長弓を制式装備していたかどうかは、かなり微妙な問題になる。逆に、百済と伽耶、特に伽耶軍は、件の長弓を装備していたかもしれない。要するに、武器レベルで、妄想の仕方がだいぶ変わってきてしまうわけです。まして、4世紀末から5世紀前半頃の戦い、ということになると、いわゆる「倭」軍の弓は、後の原始和弓とはずいぶん違うものだった可能性がある。新しい知見により、戦いは非常に妄想しにくくなってしまったわけです。

ところで、皆さん良くご存知のように、東夷伝では、しばしば諸民族をそれぞれの固有の弓によって特徴づけています。夷の字が、人と弓、ないし大いなる弓に分解できる、という話も良くされますね。そして倭人の弓の特徴が、例の上長下短の長弓ということになるわけですが、東夷伝の時期に、それに最も近い弓を持っていたのは、日本列島の部族集団よりも、むしろ朝鮮半島南部の人達であった可能性が高い。唐子や登呂にその可能性がある資料は認めらるから、日本列島でも一部で用いられていたかもしれない。しかし、確実な出土例から判断すると、その分布の中心は、朝鮮半島南部にあったとみなした方が良い。となれば、その独特なフォルムの弓によって特徴づけられる「倭人」の居住域は、朝鮮半島南部にその中心があり、一部日本列島にも分布するかもしれない、という話になってきそうです。その初源においては、「原始和弓」ではなく「原始倭弓」と書くべきかもしれません。

というわけで、「倭」とか「倭人」って何なんだ、と妄想が深まるわけです。