2004年12月にWebSiteに公開した雑文。一部協会発表要旨と内容が重複している。
はじめに
西洋史学や軍事史学の分野で用いられている概念に、軍事革命あるいはRMA:革命的軍事改革という考え方があり、軍事にかかわる歴史的な問題の研究を深化拡大させるのに役立っている。これらの概念の導入は、まちがいなく考古学にも有効であると思われる。
そこで、主に考古学研究者を対象に、それらがどんな概念であるか簡単な紹介を試みよう、というのが本論の目的である。
なお、本論は今村伸哉訳、マクレーガー・ノックス/ウィリアムソン・マーレー著『軍事革命とRMAの戦略史 ー 軍事革命の史的変遷』(2004年、芙蓉書房出版)に依るところが大きい。大部分はそれからの引用または要約である。予めお断りするとともに、原本を一読することをお勧めする。
1. 研究小史
「軍事革命」の概念は、1955年にスウェーデン近世史の研究者、イギリスのマイケル・ロバーツが、クィーンズ大学教授就任講義で初めて主張した。その主旨は以下の通りである。
近世ヨーロッパで起きた最も重要な歴史現象が、オランダのマウリッツが開発し、スウェーデンの軍事王グスタフ・アドルフが発展させた戦術および軍制改革である。この革命的軍事改革が、近代ヨーロッパ列強が世界に発展する原動力と進路を決定的に運命づけたからである。その歴史的重要性に鑑み、これを「軍事革命」と呼ぶ。この革命の完遂はヨーロッパ史に巨大な影響を及ぼし、中世社会と近代社会を分つ分水嶺となった。
このロバーツの主張は、西洋史研究の分野で長く激しい論争を経た後に、基本的に受け入れられた。いっぽう軍事史研究の分野では、他の時代に研究者の目が向いており、1990年代に入るまで、その考えが関心を惹くことはなかった。
1970年代の米軍のめざましい新技術 ー 精密誘導弾、巡航ミサイル、ステルスなどの開発は、ソ連軍の軍事思想家に深刻な危機感を抱かせ、これを「軍事技術革命」(Military-technical Revolution)として認知させた。米国防総省にあってこの概念の重要性に気づき、純技術的な側面より軍事原則の面を重視した「革命的軍事改革」すなわちRMA(Revolution in Military Affairs)の概念として発展させたのがアンドルー・マーシャルである。1980年代中頃から90年代初頭にかけて、RMAは米国内の防衛コミュニティーに認知されていった。
その後、RMAを受け入れた国防総省の指導者層は、マーシャルの意に反して歴史的アプローチで未来を予測しようとする方向に向かわず、巨額の予算を要する兵器装備の直接的利害にかかわる紛糾へと向かった。いっぽう、歴史研究の分野では、17世紀以前のRMAの事例にも目が向けられ始め、軍事革命とRMAの区別と関係も整理されて、研究が深化拡大して今日に至っている。
2.プランタジネット朝のRMA
エドワード3世(1327-77)の時代、イギリスは劇的な革命的軍事改革(RMA)を達成した。まずはじめに分かりやすい具体例として、この14世紀イギリスのRMAを紹介する。
RMA前夜
エドワード3世の父、エドワード2世の時代、イギリス兵2名は1人の弱いスコットランド兵に敵わなかった。フランチェスコ・ペトラルカによれば「私の青春時代、イギリス人は、……イタリア人を除いて最も勇気のない国民である」と思われていた。その戦いぶりは次のようなものであった。
- バノックバーンの戦闘
- 1314年、スコットランド王を称するロバート・ブルースが重騎兵1500、歩兵40000を投入してイングランドの支配するスターリングを包囲した。エドワード2世はその守備兵を救出するため、重騎兵5000、軽騎兵10000余、弓兵20000、歩兵25000を含む少なくとも60000の兵力で出撃した。6月23日、ブルースはバノックバーン後方のなだらかな丘陵に主力を配置、主陣地前方に落とし穴を作りイングランド軍の攻撃を待った。翌24日、イングランド軍重騎兵が蝟集して敵正面に数次にわたって突撃を敢行したが次第に混乱に陥った。いっぽう弓兵も十分に展開できず、味方後方から射撃したが敵よりも味方を撃つ結果となった。最後はイギリス軍が総崩れとなって退却、少なくとも15000が戦死した。対するスコットランドの損害は4000だった。
ダプリン・ムーア以後
ところが、エドワード2世を継いだエドワード3世(エドワード高貴王)の代になると「100人のフランス兵部隊は、20人のイギリス兵と対峙することも戦いを挑むことも望み得ない」という状態になった。以下、エドワード3世とその後継者の主要な戦闘の概要を示す。
- ダプリン・ムーアの戦闘
- 1332年8月、エドワード3世指揮する騎士と重騎兵1000、弓兵1500はスコットランドに侵入、重騎兵2000、歩兵20000という10倍近い敵とダプリン・ムーアで衝突し、これを一方的に撃破した。スコットランド側は、摂政、スコットランド伯5名のうちの4名、そして兵3000が戦死した。
- ハリドン・ヒルの戦闘
- 1333年7月、イングランド軍は倍するスコットランド軍と衝突、新たなスコットランド摂政、新たな伯爵4名、1000以上の兵士を倒し、これを撃破した。
- スロイスの海戦
- 1340年6月、イングランド艦隊150隻とフランス艦隊190隻がスロイス港入り口で交戦、フランス軍は166隻を撃沈または捕獲され、殲滅された。
- クレーシーの戦い
- 1346年7月、エドワード3世は騎士と重騎兵3000、イングランド弓兵10000、ウェールズ軽歩兵4000を率いてフランスに侵攻した。対するフィリップ6世は60000の大軍を率いてこれを迎撃しようとした。エドワード3世は危険を察知、フランドルへの撤退を開始するが、ソンム川を渡河した地点でフランス軍に追いつかれる。8月26日、エドワード3世はクレーシー森側の良好な地形に布陣した。夕刻6時、フランス軍重騎兵がこれに殺到するやイングランド長弓兵が一斉射撃で応戦、フランス軍はボヘミア王はじめ10000〜20000の死傷者を出して敗走した。
- ポアティエの戦闘
- イングランド軍はクレーシーの大勝の翌年カレーを占領、1355年に戦闘が再開した。エドワード3世の第一王子黒太子がイングランド軍を指揮、ボルドー地方、ついでオルレアン方面からロワール川流域を蹂躙した。フランス王ジャンが20000の兵を率いてオルレアンに向かうと、黒太子は7000の兵をもってボアティエに布陣した。56年9月16日、フランス軍重騎兵が突撃を敢行するがイングランド弓兵がこれを阻止、次いで黒太子が突撃を繰り返しフランス軍を撃破した。フランス軍は2500が戦死、ジャン王以下2600が捕虜となった。
- ナジェラの戦闘
- カスティリャの王位をめぐりイングランドとフランスが介入した。1367年、ボルドーを拠点としていた黒太子は、カスティリャの残酷王ペドロの要請を受け、重・軽騎兵10000、傭兵10000を率いてピレーネを越え、フランス軍が支援するアンリー軍とエブロ川流域で相対、重騎兵5500、軽騎兵4000、弩兵6000、歩兵20000からなるフランス・カスティリア連合軍と交戦、指揮官のデュ・ゲクラン将軍を捕え、7000を戦死させた。
- アザンクールの戦い
- ヘンリ−5世率いるイングランド軍が大陸に上陸、重騎兵800、弓兵8000をもって進軍。1415年10月25日、シャルル・ダルブレ率いる30000以上のフランス軍がアザンクールでこれに衝突した。戦闘の結果、フランス軍は少なくとも5000以上が戦死、1000が捕虜となった。イギリス軍の戦死は100余だった。
一連の圧倒的勝利は、イングランドにフランスの三分の一余の領地をもたらし、自己が支持するペドロ残酷王のカスティリア王朝復位を実現させるなど、「まったく新しい太陽が昇ったように思える」栄光をもたらした。
テクノロジー
14世紀イギリスのRMAの明確なテクノロジー構成要素はイチイ材の長弓である。近年の研究から、甲冑部隊に対しても致命的な効果を有する武器であったことが明らかにされている。当時の弩の少なくとも3倍の初速を持ち、遠く正確に発射でき、甲冑を突き抜けて人馬に致命傷または重傷を負わせる打撃を与えられた。1333年のハリドン・ヒルの戦いでは、この長弓に何千ものスコットランド兵が射倒されたという。
しかし留意しなければならないのは、長弓はイングランド国王軍にとって、新しいテクノロジーではなかった点である。
1314年、バノックバーンの戦闘で、スコットランド王ブルース・ロバートによって撃破されたエドワード2世の部隊の大部分は、長弓兵が占めていた。イギリス軍はスコットランド兵に対し圧倒的に数で勝り、最も良く装備された遠征軍であったにもかかわらず、敗北した。つまり、エドワード2世は、明らかに長弓を採用していたにもかかわらず、RMAを生み出せなかったのである。
では、1314年のパノックバーンの大敗北から、1332年のダプリン・ムーアにおける大勝利までの20年弱の間に、プランタジネット朝陸軍には他にどのような装備の変化が認められるのであろうか。この点については、2つの変化が注目される。すなわち、火器の導入と、重装騎兵の装甲および軍馬の改良である。
1327年、エドワード3世はヨーロッパで初めて砲兵を投入し、その後の生涯も砲兵技術の最先端にいた。クレーシーでは大砲が初めて野戦で使われた可能性がある。1346〜7年のカレー攻城戦では、10門の火砲が用意された。
イギリス騎兵は、エドワード3世当時ヨーロッパで最良の装備を有していた。また当時のイギリスの軍馬は、「エドワード王時代様式の馬飼育革命」と称されるほど改良が進んでいた。
以上の事実にもかかわらず、火器や騎兵の装備および軍馬の優位性は、戦闘においてさして重要な意味を持たなかった。というのも、大砲は騒音が印象的なだけで、まだ重要な兵器となってはいなかったからである。クレーシの戦いでは数人のイタリア人を脅かしたかもしれないが、大砲が野戦に影響を与えたのはずっと後のことであった。また、イギリス重騎兵はほとんど例外なく戦闘では下馬し、勝利した後に追撃する時に限って乗馬したので、馬匹の改良はあまり戦況に影響を与えなかった。騎兵の装備の改良もイギリスの勝利に明確に寄与することはなかった。フランス軍もまた同様の板金甲冑を装着していたからである。
つまりエドワード3世のRMAの間、戦争の物質文化の変化は、全く決定的ではなかった。テクノロジーは重要な補助要素であったが、1330年代から50年代にかけて、イギリスの軍事的効果に見られる素晴らしい発展に比べれば、技術的には進歩していなかった。
組織
イギリス陸軍は、バノックバーンの屈辱的大敗北から百年戦争の間の10年間に、重要な組織的、構造的、行政的な変化を遂げていた。エドワード2世のそれは、まだ部分的に封建的性格をとどめていたが、少なくとも1334年以降の募兵以降、エドワード3世の軍勢の全勢力は王から賃金支給を受ける兵士から構成されていた。
対フランス戦争がプランタジネット朝にもたらす巨大な利益は、兵士に対して十二分な給金を支払うことを可能にし、エドワードの軍事遠征に参加することは兵士にとって極めて魅力的なものとなった。略奪の機会も含めて、軍務は煩わしい職務ではなく、兵士に取って望ましい好機に変化していた。
戦術
バノックバーンで壊滅的敗北を蒙ったイギリス軍は、陸戦の考えを転換し、エドワード2世の終わり頃には、騎士でさえも下馬して歩兵として戦うべきであるということを広く受け入れるようになっていた。騎馬は、追撃のための予備的役割を与えられた。
エドワード3世が自身で指揮した最初の2回の戦いでは、歩兵のような長槍を装備した重騎兵が下馬して中央阻止部隊として密集体形を形成し、その両翼のそれぞれ斜め前方に2群の弓兵隊を配置して、中央阻止部隊を攻撃する敵部隊の正面と側面に対して射撃しつつ側面を守るという戦闘態勢で戦い、異例なほどの成功をおさめた。こののち1世紀以上の間、イギリス軍はこの戦術システム ー 「ダプリン戦術」に固執し、それによって度重なる勝利をおさめることができた。
戦略
「ダプリン戦術」は次々に敵を撃破することに成功したが、正面攻撃を慎重に控える軍に対しては効果がなかった。ところが、この期に普及していたのは、可能な限り開豁地の戦いは避けるという戦略であった。そこでエドワード3世は、敵に攻撃を強いるために、次のような二つの戦略を採用した。
- 重要な都市の包囲
- その都市が陥落するのを潔しとしなければ、対立する野戦軍は戦わなければならなかった。
- シェヴォシェ
- イギリス軍はたいまつを持って敵領域の中を騎乗し、長さ数百マイル、幅30マイルの破壊地帯を作ることで、戦いを拒んでる敵に耐えられない損害を与えた。
服従か戦いかを迫るこの二つの戦略は効果的で、最終的にはエドワード3世が要求する条件で、平和条約をフランスに強要することを可能にした。
リーダーシップ
プランタジネット朝が長期間にわたって戦場で成功できたのは、兵器の優位を最大限に活用する優れた戦術システムと同様、激烈に戦う部隊と、良きリーダシップに拠っていた。戦術的勝利を戦略の成果に転換するエドワード3世の巧みさは、原則の単純な遂行以上のものを必要とした。
結論
14世紀イギリスのRMAは一般的な原則を示唆している。兵器と軍事組織の改良は、有効な戦術システムの一部として採用しなければ一貫した戦いの勝利をもたらすことはない。また、軍指導者が戦略の採用に適切な状況を作為し、次に戦場の成功を政治的な結果に変える戦略を展開し手段としなければ、その得意とする戦術は永続する勝利をもたらさない。エドワード3世のRMAを達成せしめたのは、「ダプリン戦術」、たくみな戦略、軍指導部の優れた人為的貢献の組み合わせである。
3. 軍事革命とRMA
軍事革命とRMAとは、それぞれ異なる歴史的現象である。
- 軍事革命(Military Revolution)
- 通常、社会や国家を改造する大きな社会的・政治的変化の結果生じる。これまで軍事組織が準備し遂行してきた戦争の方法・様式を根本的に変化させる。その進行中に制度と国家を潰すか、基本的に練り直す、抑制も、予測も、予見すらできない大変動。たとえば18世紀末のフランス革命(大衆政治と戦争とが融合した結果、徴兵制が生じ、100万規模の軍隊が人類史上はじめて登場した)。
- RMA(Revolution in Military Affairs):革命的軍事改革
- 軍隊が、教義、戦術戦法、作戦手順、テクノロジーにおける変化に関連する斬新な構想を創発する革新段階。
過去のRMAは、下記のように少なくとも4つの卓越した特性を示す。
- テクノロジーだけがRMAを推進したのではない。テクノロジーはあくまでも触媒として機能した。
- RMAは、特定の敵に対する、特定の交戦圏における、特定の作戦、戦術における漸進中の問題解決のなかから出現してきた。
- 現実主義に根ざした軍隊のカルチャーに基礎をおく教義と概念・構想で一貫した枠組みを必要とする。
- 戦略的前提と戦争の本質に根ざし、かつ限定されている。
4. 考古学の何に役立つのか
RMAという考え方を研究に受け入れることは、二つの面で考古学に有用である。
- 第一に、当然のことながら、軍事的側面をめぐる考古学的考察を進める上で、今後の研究では不可欠な概念になるであろうと予測される。
- 第二に、考古学研究の方法そのもののRMAに役立つ。とくにテクノロジーの問題をどう捉えるかという点で有効である。
ちなみに、第一の有用性を示す試みとして、2005年春の考古学協会総会において
「日本列島における初期国家形成期の軍事革命」
と題する研究発表を準備をしている。
第二の有用性、については以下のように捉えられる。
考古学や発掘調査に新しいテクノロジーを導入しその刷新を図らなければならない、ということが繰り返し主張されてきた。筆者もそのような主張を展開して来た者の一人であるし、そうした主張は基本的には間違いなく正しいと考える。
ただし、テクノロジーだけで考古学を刷新できるわけではない。インターネットがあれば直ちに情報共有できるわけでもない。日本の考古学研究者の悟性、その特有の文化、組織や人的紐帯の特質、指導的役割を果たす者のリーダシップなど、複雑に関連し合った現実具体的な諸事項が複合的に動き出したときにはじめて、テクノロジーは革新の触媒としての役割を果たすことができる。そのような観点から見れば、従来の主張の多くが、テクノロジーの問題を最優先に論じるだけで、現実におきる摩擦や複雑さを無視した机上の空論の傾向が強かったことは否めない。
こうした問題の解決策を実際に考える時、RMAの研究成果を参照することが、間違いなく有用だと思われる。というのも、テクノロジーの刷新がきわめて重要なファクターとなるが、しかし問題はそれだけで解決するほど単純ではないという共通性があるからである。両者の違いは、RMA研究が、文字通り死活を懸けた問題として、考古学よりはるかに先行して議論を深化させてきた点にある。最新テクノロジーの導入を触媒として考古学を刷新するために、すでに深められているその成果から学ぶことには十分意義があるだろう。
つまり、RMAの考え方を導入することは、考古学にとって、その内容も方法も変革させる良い機会となる、と考えられるのである。