妄想軍事考古学「高句麗 vs 連合軍」

 以下は三年ほど前にブログに書いた雑文。Facebookで「あれ面白かった」というお声があったので、探してみました。データが残っていたので再録。なお、飽くまでも脳内妄想ですから念のため。ちなみに、この文を書いた時に比べ、現時点ではヤマト族の戦闘能力の評価をだいぶ下げています。

 

 満を持して朝鮮半島を南下する高句麗軍。これを阻止せんと迎え撃つ倭・百済・伽耶連合軍。両者の衝突を想像してみよう。
 居酒屋で友人(武器考古学者)と飲むと、こうした話で盛りあがる。徳利が騎兵、おでんの鉢が歩兵、刺身の皿が弓兵に変身して大活躍。時にはグラスがひっくり返る激しい攻防戦となる。本日はブログ用に、簡単な図を描いた。わざと地形は真っ白。周囲の地形や構造物の存在一つで、 同じ陣形でも勝敗の行方は全く変わるに違いない。

時:5世紀第3四半期のある年8月26日午前10時開戦
所:現在の清州市付近(半島南部にある山間の都市。愛知県清須市ではない。)
両軍の兵力
高句麗軍 兵力:11000
重装騎兵1000、軽騎兵2000、重装歩兵3000、軽装歩兵3000、弩兵2000
連合軍 兵力:6900
重装騎兵300(百済200・伽耶100)、軽騎兵500(百済300・伽耶200)、重装歩兵1600(百済1000・伽耶600)、軽装歩兵2400(百済1400・伽耶1000)、弩兵500(百済300、伽耶200)、長弓兵1600(全て倭、うち装甲兵200、一部は鉾を装備)

戦闘の経緯
緒戦
 午前10時、高句麗軍第一線の弩兵部隊および重装歩兵が進撃を開始。双方が150メートル前後に近づいた時点で、高句麗軍弩兵と倭軍長弓兵の射撃戦で戦端が切られる。
 高句麗弩兵は最初の斉射後、一時停止して次の矢をコッキング。その間に倭軍弓兵が続いて数回の斉射。高句麗弩兵に損害が出始める。
 コッキング完了後、高句麗弩兵は100メートル前進(この間にさらに数波にわたり長弓の斉射を受ける)、50メートル前方で連合軍に向けて直接射撃を敢行。
 倭軍は大楯に守られ被害軽微。直ちにコッキング中の高句麗弩兵に対し、直接射撃で反撃。弩兵部隊は戦意を失い退却を開始。
 高句麗重装歩兵は、弩兵と速度を合わせて前進する過程で、倭軍長弓兵による間接射撃を受け一部に若干の被害を受けるも、弩弓の一斉射撃後、百済・伽耶両軍の主力である重装歩兵部隊に向け突撃を開始。両軍が激突。数において劣る百済・伽耶両軍が支えきれず後退していく。
 倭軍長弓兵は、まず敵の突撃に対して側面から斉射を浴びせ、損害を強いる。次いで第二列部隊が大楯を置いて移動し、友軍を押し始めた高句麗重装歩兵を、側面あるいは背後から剣や鉾で挟撃。高句麗重装歩兵は十分な戦闘空間を保持できなくなり、数の優位を減殺される。これを機に百済・伽耶歩兵が押し返し始め、包囲された高句麗軍第一陣が苦境に陥る。
この状況に高句麗騎兵が反応。重装騎兵が倭軍長弓兵の陣に突撃を開始。いっぽう軽騎兵は両翼に展開し連合軍の背後を突くための機動を開始する。
 突撃する重装騎兵が射程に入ったところで倭軍長弓兵が間接射撃を開始。しかし、装甲に守られ、重騎の損害は軽微。すると両翼に展開していた百済・伽耶弩兵が重装騎兵を側面から狙撃、高句麗騎兵に一定の損害が生じる。
 高句麗騎兵はさらに突撃を続行し、倭軍置楯陣に殺到。長弓兵が直接射撃で迎え撃ち、被害を受けるが遂に置楯陣に到達、突破を試みる。倭軍は剣と鉾で応戦して置楯陣列を守ろうとするが、何カ所かで突破され混戦となる。軽装の弓兵に被害が広がる。退却の合図により、倭軍は第一陣第二列まで後退。
 さて、そのあとはどうなるのか…。ここまでは、あくまで妄想で、学説でも何でもないので念のため。実際に分かっていることは、475年に百済が王都を失うことだ。百済のこの一時的な滅亡による混乱は、日本に多くの人と技術を流入させた。馬具にも大きな変化をもたらしている。この点については何時かいずれ。

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