「妄想軍事考古学」その後

ずいぶん前、5世紀後葉に起きた、高句麗と百済・伽耶・倭連合軍との戦いの様子、を妄想した一文は、皆さんに面白がっていただきました。しかし、今だったら、ずいぶん違う書き方になるだろうな、と思います。というのも、日本列島に勢力を有したであろう部族集団の武器、特に弓については、その理解に大きな修正が必要になったからです。さらに、そもそも「倭」って何だ、という問題に、私の容量の乏しい脳みそが悩まされるようになったからです。

妄想軍事考古学「高句麗 vs 連合軍」

さて、いわゆる和弓の原型、その長さや形状はそっくりだけれど、丸木でできた原始和弓については、日本列島オリジナルである、かの一文を書いたときはそう思い込んでおりました。弥生時代の戦乱の中で、縄文時代に成立した小型の狩猟弓が、長大な戦闘弓へと進化した結果、上長下短という独特の形態を有する原始和弓が発生したのであろうと。しかし、弥生時代に弓が長大化し、戦闘弓へと変化したことは事実だとしても、それらと原始和弓との間には、非常に大きなギャップがある。そして一方、原始和弓とその特徴を共有する、長大な漆弓の確実な出土資料は、実は朝鮮半島南部において、日本列島側の時期区分でいう弥生時代に相当する時期に、まず認められる、ということが分かっています。つまり、原始和弓は日本列島オリジナルではなく、その起源は朝鮮半島南部にある、そう捉えるのが、少なくとも現時点において妥当である。

日本列島で、上長下短の長弓が確実に出現するようになり、次第にその頻度が高くなって、ついには正倉院御物のような原始和弓に至るのは、確かなところでは5世紀末以降なんですね。つまり、以前妄想した5世紀末葉における高句麗対百済・伽耶・倭連合軍の戦いがあったとすると、倭軍が上長下短の長弓を制式装備していたかどうかは、かなり微妙な問題になる。逆に、百済と伽耶、特に伽耶軍は、件の長弓を装備していたかもしれない。要するに、武器レベルで、妄想の仕方がだいぶ変わってきてしまうわけです。まして、4世紀末から5世紀前半頃の戦い、ということになると、いわゆる「倭」軍の弓は、後の原始和弓とはずいぶん違うものだった可能性がある。新しい知見により、戦いは非常に妄想しにくくなってしまったわけです。

ところで、皆さん良くご存知のように、東夷伝では、しばしば諸民族をそれぞれの固有の弓によって特徴づけています。夷の字が、人と弓、ないし大いなる弓に分解できる、という話も良くされますね。そして倭人の弓の特徴が、例の上長下短の長弓ということになるわけですが、東夷伝の時期に、それに最も近い弓を持っていたのは、日本列島の部族集団よりも、むしろ朝鮮半島南部の人達であった可能性が高い。唐子や登呂にその可能性がある資料は認めらるから、日本列島でも一部で用いられていたかもしれない。しかし、確実な出土例から判断すると、その分布の中心は、朝鮮半島南部にあったとみなした方が良い。となれば、その独特なフォルムの弓によって特徴づけられる「倭人」の居住域は、朝鮮半島南部にその中心があり、一部日本列島にも分布するかもしれない、という話になってきそうです。その初源においては、「原始和弓」ではなく「原始倭弓」と書くべきかもしれません。

というわけで、「倭」とか「倭人」って何なんだ、と妄想が深まるわけです。

 

 

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