考古学研究者の人口動態(2011年段階)

 

以下は、先の「発掘調査員の人口動態(2011年段階)」と同じ時期に、続けて記した一文である。参考にしていただければ幸い。

 

はじめに

先に報告したように、文化庁統計をもとに埋文専門職員の人口動態を分析すると、若年層の急激な減少と非正職化に加えて、発掘調査員の資質劣化が同時進行するという、文化財行政の黄昏とでもいうべき寒々とした現状が浮かび上がってくる。

ところが、日本考古学協会員の人口動態を分析すると、それとは裏腹に、若手研究者の増加と活躍という、明るい景色が見えてくる。

こうしたギャップは、なぜ生じているのでろうか。またそれは、今後の文化財行政あるいは考古学界に、どのような影響を及ぼすのであろうか。

以下、2010年度版会員名簿のデータをもとに、考古学研究者の人口動態を分析して、そこから見えてくるいくつかの状況を整理してみる。

ギルドから学会へ

日本考古学協会は1948(昭和23)年に、登呂遺跡の発掘を当初の目的として、明大の後藤守一と杉原荘介が中心になって設立した組織である。1970年代頃までは、会員資格が一種のステイタス視され、若手研究者の入会を阻む雰囲気すらあった。とくに地方ではその傾向が顕著で、2~30代で入会するのは「生意気」と見なされる、学会というよりも、ギルド的な性格の組織であった(一部には、まだその頃の意識が残っているかもしれない)。

しかし、1980年代から次第にそうした結社的な雰囲気が後退し、会員数が増加していく。1995年に論文誌の『日本考古学』が刊行され始めると、それを機にさらに学会としての色彩が濃くなる。とくに近年、若手研究者の間で査読論文執筆歴の必要性が高まり、『日本考古学』が発表の場として重視されるようになると、その傾向が顕著になった。現在では、『考古学研究』や『考古学雑誌』を抜いて、『日本考古学』が最も権威ある学術誌と認められるようになり、多少とも野心のある若手研究者が国内で研究生活を進めていくためには、最低限入っておかなければならない学会となっている。このため、運営には古参研究者が当たっているが、研究主体はすでに若手研究者に移行しているとみてよい。

以上のような経緯もあって、日本考古学協会メンバーは、大きく三つの年齢グループから構成されている。最古参グループは、1970年代頃までに入会した、協会員であることが「特権」であったころからの生き残り層である。各地方で長老としての役割を担っている。次いで80年代~90年代に入会した年齢層が、学界や行政組織の中核をなすグループである。さらに、2000年以降に入会した年齢層が、若手研究者によって構成されるグループである。

実は元気な若手研究者たち

先の発掘調査員をめぐる文化庁統計で、最も元気のない年齢層が、最後の若手研究者層に相当する。

ところが、この年齢層の研究者としての動きは、考古学協会入会者数を見る限り、極めて旺盛で活発であることが分かる。黄昏の文化財行政とはうらはらに、若手による考古学研究は、むしろ隆盛の勢いを示しているといえる。しかも、文化庁はもとより、大学サイドも、自分のことだけ考えるあまり、それに気付いていないようだ。

考古学研究者としての就職口が無い、あっても非正規雇用という厳しい現実を前にしても、若手考古学者の研究意欲は衰えるどころか、前向きである。しかも以前にくらべて、活動の範囲を海外に広げる研究者が多いのが、このエイジ・グループの特徴である。

研究への意欲満々の若者たちは、やはり大都会や研究の中心地に集まっている。棒グラフの右側を占める若手研究者層やその兄弟子筋に当たる元気の良い若手研究者は東京をはじめとする首都圏に圧倒的に集中している。それに次ぐのが、関西圏や福岡である。

民間企業が、元気な若手グループをリクルートしたいなら、首都圏のそれを対象とするのがもっとも手っ取り早く効率がよいということになる。にもかかわらず、首都圏に集中する発掘調査企業のほとんどが、彼らの活気を取り込むことに成功していない。当然のことながら、彼らが求めるものを提供できていないからである。何が欠けているのであろうか。

埋文行政の黄昏のなかで、考古学界にあって最もエネルギッシュな若いエイジ・グループの力を、どのように引き出し、どのように活用していくのか、いけるのか。それが、これから民間調査企業が成長していくための、一つの重要な鍵となるだろう。行政の拙い下請けとして、昔ながらの発掘調査をしている限り、若くて優秀で、元気一杯の考古学徒を引きつけることは到底できだろう。それだけは間違いない。

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