1979年12月段階の馬具研究史

 1980年1月に明治大学に提出した卒業論文のうち、のちに『日本古代文化研究』(1984、古墳文化研究会)に「いわゆる素環の轡についてー環状鏡板付轡の型式学的分析と編年ー」と題して発表した論文において、煩雑になるのを避けるため省いた研究史の部分を、そのまま掲載します(正確にいうと12月中にまとめた下書きです)。当時の雰囲気をお伝えできれば幸いです。なお以前にもネット上に公開していましたが、ブログの運用システム(ワードプレス)を玩んでいるうちに、吹き飛ばしてしまった文書群の一つです。ご参考まで。ちなみに冒頭の「科学としての考古学」という文言は小林行雄の受け売りです。今だったら絶対に使わないと思いますが若気の至りというやつです。

第一節 馬具研究史

  1. 馬具研究前史
  2.  日本における科学としての考古学は明治時代に入って開始され、その第一歩となったのがモースによる大森貝塚の発掘(1877)であったことはよくいわれるところであるが、日本の考古学の初期において実際にこれを主導し推進したのは、東京人類学会をその中心となって興した(1886)坪井正五郎であった。
     古墳時代の研究も坪井を中心に開始され、1886年には日本で最初の古墳の発掘調査が栃木県足利公園で行われたが、その遺物の中に多くの馬具が含まれていたことにより、馬具研究もここに出発した。坪井は『足利公園古墳発掘調査報告』(1888)で古墳の年代を、埴輪が使用されているという事実をもとに、『日本書紀』の記述から垂仁天皇32年、即ち紀元633年以降とし、また副葬品の中に玉類や金環があることから、漢衣のはじまった応神天皇代、即ち紀元930年代以前と推定した。発掘した古墳からは轡・雲珠・杏葉・鉸具・飾金具などが出土したが、「既に轡有り又杏葉の類有り乗馬の風有りし事推知す可」く、「工業には利器を鍛え馬具を作る事有り」と述べている。
     坪井はその後の東京芝公園の古墳群の発掘(1898)の報告(1900)においても、同様の年代推定方法を示したが、それは喜田貞吉によって文献史学の立場から激しく批判された(1903)。喜田は那珂通世の研究などをもとに考古学者が古墳の年代を論ずる際に、書紀年代をそのまま当てはめることの誤りを指摘し、埴輪と殉死の関係を否定して、古墳の年代を論ずる際に埴輪の有無によって垂仁天皇以前とか以後とかすることに疑問を挟んだ。
     坪井等のおこした東京人類会に対して、もう一つの考古学の中心が、東京帝室博物館に集まる三宅米吉等の設立した考古学会(1895)であった。1906年にはその機関誌『考古界』に高橋健自が「我国古代の馬具」を発表し、馬具について、短くはあるが初めて概説し、各部の名称を示すとともに、埴輪馬の観察からそれ等の着装方法を推定した。
     これに対して京都にいた浜田耕作は『肥後に於ける装飾ある古墳』(1917)の後論で、熊本県井寺古墳の年代を6世紀初めから7世紀初めの頃のものとし、それまで仏教渡来以降としていた横穴式石室の年代を6世紀に遡らせる年代観を示すとともに、古墳の年代を西暦世紀で表す方法をはじめて導入した。また梅原末治は『佐味田及新山古墳研究』(1921)や『輓近考古学の進軍と我が古代の状態』(1921)の中で、古式古墳と後期古墳との間に、鏡や玉の他、馬具や金銅製装飾品、環頭大刀などを副葬する一群の古墳が存在することを指摘し、朝鮮南部での古墳調査の成果を受けて、それ等の年代を六朝中期と推定している。
     鳥居龍蔵は『諏訪史』第1巻(1924)の中で、諏訪地方に出土の多い馬具について詳しく論述し、とくに心葉形唐草文杏葉を取り上げて、これをササン朝ペルシャの様式の影響を受けたものと考え、六朝時代に中国からもたらされたと推定した。また長野県や関東地方から馬具の出土例が多いことをはじめて指摘し、この地方における乗馬の風習が盛んであったことを論じた。

  3. 馬具研究の第一段階-後藤守一による型式分類
  4.  昭和に入ると、古墳時代の遺物に対する総合的な研究が盛んになった。昭和元年には『考古学講座』全32巻(1926~28)が創刊され、高橋健自「埴輪及装身具」、後藤守一「原史時代の武器と武装」など、多くの論考が発表された。またこれと前後して後藤守一『漢式鏡』(1926)や、末永雅雄『日本上代の甲冑』(1934)などの一連の労作が世に出された。
    遺物に対するこうした詳細な研究がなされる一方で、それ等の編年作業は立ち遅れていたが、梅原末治が『讃岐高松石清尾山古墳の研究』(1933)で、従来の中国鏡の年代によって古墳の年代を推論する方法の不備を指摘したため、古墳の年代を推理するための別の手がかりが求められるようになった。
    このため、後藤守一と浜田耕作は、それぞれ別個に前方後円墳の外形の年代的な変化に着目し、細部の解釈は異なってはいたが、同じように古墳時代を三期に分類した。後藤はその後、この古墳時代三期区分案に沿って、各種の遺物の年代研究を試み、「上古時代鉄鏃の年代研究」(1939)をはじめとする諸論文を次々に発表した。古墳時代の馬具についての本格的な研究も、後藤守一の手によってこの時期に開始されたといってよい。
     後藤はまず「原史時代の武器と武装」の馬具の項で、鞍・鐙・轡・馬鐸・馬鈴および環鈴・杏葉・雲珠帯辻金具の大きく六つの部分に分けて、馬具を総括的に説明し、各種各部分の名称を整理・体系化した。とくに轡や杏葉については、資料を集成して型式分類を行い、時代性や系統を考察するなど、研究の基礎を築いた。
     たとえば轡に関しては、鏡板・銜・引手・立聞の四つの部分を形態の違いによって型式分類している。
     鏡板は、円形・方形・f字形の大きく3種に分類した(異形を入れれば4種に分類し、また環状鏡板は円形鏡板に含めた)。円形鏡板については、施された文様によってさらに分類可能であることを示し、「十文字系」等の範疇を設定している。f字形鏡板については、簡単な様式のものから複雑な様式のものまであること、また方形鏡板については、横長と縦長の2種があるとした。
     銜に関しては、主に啣(くくみ)の形態の違いによって、4種に分類している。引手は主に壺金の違いによって4種が挙げられている。立聞の分類はとくにいわゆる素環の轡について詳しくなされ、立聞のないもの、逆に鏡板が退化し立聞のみ大きく発達したもの、また単に鎖を巻き付けただけのもの、矩形の立聞をつけたもの、鉸具となっているもの等8型式を挙げている。
     以上のように轡の型式分類をしたあとで、後藤はその系統についても言及し、とくにf字形鏡板をもつ轡に注目して、その起源を中国に求めた。
     次に後藤は「上古時代の杏葉に就て」()で杏葉を集成し、型式分類して一定の編年を行い、さらにそれ等の馬への着装法や、大陸の杏葉との関係を問題にするなど、包括的な分析を加えた。それによれば、杏葉は身の外形から心葉形・扁円形・偏円剣尾形・鐘形・変形の5種に分けられる。心葉形杏葉は、鏡地心葉形・心葉透・十文字荘透心葉形・三葉文荘心葉形・心葉形槌起・唐草文透・双鳳文透の8種に分類される。扁円形杏葉は、装飾文によって、斜格子文・車文・菱車文・八葉文・三葉文の5種に分類される。また、偏円剣尾形杏葉の変形として鈴杏葉が区分される。
     後藤は杏葉の出現を古墳時代中期末とする説を取り、上のように分類した型式の中で、心葉形と偏円剣菱形のものが最も古く、次いで扁円形のものや鈴杏葉が現れ、さらに鐘形杏葉が出現したとする。さらに装飾文については、三葉文が最も古く、忍冬唐草文や双鳳文を有するものは古墳時代末期のものであると考えた上で、それ等の杏葉が朝鮮半島南部のものと類似することを指摘し、その共通の起源を中国南部に求めた。
     以上のように、後藤の一連の論考は馬具の体系的研究にその基礎を与え、方法的にも一つの方向を示すものであった。しかしいっぽうで、各型式の年代決定を出土古墳や伴出遺物の年代に依存しており、年代推定の根拠に乏しいという指摘を、後に小野山節に指摘されることになった。
     第二次大戦末期、藤森栄一は「信濃諏訪地方古墳の地域的研究」(1944)を著し、そのなかで馬具に論及した。藤森は諏訪地方の末期古墳に発見例の多い「実用的な簡素な」馬具群に注目し、これらと古墳時代における馬匹生産とを結びつけて考察し、奈良・平安時代の文献に見える牧との関係を指摘した。しかし、環状鏡板付轡をはじめ簡素な馬具そのものについては「いずれも普通のもので、それ自体からは時間的にも空間的にもなんらの特徴を強調することはできない」として、それ以上の考古学的分析を加えることはなかった。

  5. 馬具研究の第二段階-騎馬民族論争と馬具研究
  6.  1949年に発表された、江上波夫のいわゆる騎馬民族日本征服説は、第二次世界大戦後の停滞していた研究に大きな刺激を与えた。
     江上は岡眞正雄、八幡一郎、石田英一郎とによる「日本民族=文化の源流と日本国家の形成」と題する座談会において発言し、「呪術的な、象徴的な、平民的な、東南アジア的な、いわば農耕民族的な」前期古墳文化と、「現実的な、戦闘的な、王侯貴族的な北方アジア的な、いわば騎馬民族的」古墳時代後期文化の二つの類型の交替が単なる内部的原因によっては説明しがたく、「大陸から朝鮮半島を経由し、直接日本に渡来侵入し、倭人を征服したある有力な騎馬民族があって、その征服民が以上のような大陸北方系文化複合体を自ら帯同してきて日本に普及せしめた」と断じたのであった。
     この「騎馬民族日本征服説」に対しては多くの批判的論文が発表された。その中でも小林行雄「上代日本における乗馬の風習」(1951)は、乗馬の風習の伝来をめぐって考古学の立場から反論した。小林はまず古墳時代の馬具を通観し、前期には乗馬の風習を証する馬具はなく、中期になって少しずつ現れること。その初現は確実には5世紀中葉であり、特徴的な遺物として木心鉄板被輪鐙を伴い、また多分に装飾的であることを指摘し、これ等が朝鮮半島との交流を通して輸入されたものであると論断した。次に小林は文献的考察を試み、『日本書紀』「応神紀」の百済貢馬の記事などから当時日本には飼馬の技術も、飼育者もいなかったことを推察し、騎兵集団を編成できるほどの多量の軍馬が飼育されるようになったのは、おそらく雄略以降のことであると考えた。そして、遺物と文献との二つの資料から導き出される結論として、「4世紀以前のわが国には乗馬の風習は存在しなかったこと、それが一般に実用化したのは5世紀末以降であって、そのあいだには、やや永い過渡期的漸進期がみられ、(中略)、この漸進期の原動力は、異国の流行の摂取として、外交儀礼の整備として、かつまた対外軍備の蓄積として、すべての半島諸国との交渉の上に発生」しており、「騎馬に必要な馬具の供給は、当初は輸入をもってあてられ、のちに鞍部のごとき帰化の工人によるわが国での製品にうつった」のであって、「騎馬民族の征服によって事を解決する方法は、考慮の余地がない」と厳しく江上説を批判した。
     一方、増田清一は「埴輪馬にみる頭絡の結構」(1960)において、それまで学会に知られていなかった応神陵発見の埴輪馬頭部を例にあげ、金属製轡が我が国に伝わる以前に、そのような轡を伴わない遺存しにくい頭絡があったのだろうと述べ、江上の説を支持した。
     これに対して、前述の「上代日本における乗馬の風習」の中で「5世紀以前に金属製の装具をほとんど用いない、実用本位の馬具の先行を想定し、古墳時代前期にも乗馬の風習が存しえたであろうことを主張されるならば、遺物を出発点とする考古学の議論としては、われわれはもはやひきさがらざるをえない」と記していた木林は、「前期の武器が歩戦用のものばかりで、騎馬用のものがみされないという事実を無視しては、騎馬民族論は空転するばかりである」と後に反論した。
     美術史の立場から、我が国の古墳時代ばかりでなく、広くユーラシア大陸の馬具を研究し、次々と注目すべき論文を発表したのが鈴木治である。鈴木は「正倉院十鞍について」(1952)で、正倉院に収められていた10組の鞍をはじめとして、その他障泥、腹帯、三懸、轡、鐙等を精査し、アルタイ地方パジルク古墳出土の紀元前3~4世紀の馬具類等との比較を行い、革紐の結紐法や、鞍橋と居木との結合法などに共通点を求め、「遠く騎馬民族独特の手法が伝承されたもの」として注意を促した。次いで鈴木は「轡・■考」(1957)で、轡の字義的な考察を行い、実は中国において「轡」字は我が国のタズナを意味したものだが、日本に入ってクツワ全体を指すらゔになったものと説いたあと、東西の轡を集成し、そこから長大な引手と橘金をもつ我が国独自のいわゆる「十字轡」の系統を論じ、その遠い起源はヨーロッパ初期ないし中期ラテーヌ期の吊釣(Anhänger)をもつボタン轡(Knoptentrensen)に連なるものであり、その後殷周時代の中国を経て、さらに南シベリアより朝鮮半島を経由して、我が国にもたらされたとした。
    さらに、我が国の古墳時代の馬具の系統を考える上で貴重な論文が、「朝鮮半島出土の轡について」である。鈴木はまず朝鮮半島出土の轡を、「鑣轡」(ハミエダグツワ、knebeltrense)、円環轡(ringtrese)、鏡板轡の三種類にし、その上で、従来我が国の学会が、銜の両端の付加物すなわちCheek-piece(銜留金具)をその形態の如何を問わず総て「鏡板」と称してきたことの非合理性を論じた。そして「鑣轡」については、これ等が総て楽浪時代に属し、殷周の遺制に従った輓馬副葬によるものであり、三国時代諸墳の轡が騎馬用であるのとは異なっているとした。「円環轡」についてはさらに三種に分類し、①「純正円環轡」として、銜の両端に完全な回転性を有する円環を噛ませたもの(回転円環轡)、②我が国の十文字轡と同じく「丸に十の字」の円環を銜に噛ませて、外側よりこれに引手を繋いだもの、③銜の両端の環孔をやや大振りにして、これに面勒着装用の鉸具と引手を直接繋ぐもの、に分けた。そして「回転円環轡」にはその起源にケルト説(ラテーヌ中期)とサルマート説があることを紹介し、また3枚(連)銜と2枚(連)銜とが地イヴ遷都日本に同時に出現したことに注目した。さらに我が国の古墳から多数出土するいわゆる「韓銜」(カラハミ)即ち鉸具造環状鏡板付轡が、朝鮮半島から出土しないけとに疑問を提出している。

  7. 馬具研究の第三段階-小野山節の編年研究
  8.  1950年代の終わりから60年代のはじめにかけて、馬具研究は大きく前進したが、その背後には戦後の様々な発掘調査の成果に基づく、考古学全体の発展があった。古墳時代の研究と直接関係はないが、登呂遺跡の発掘調査(1950)と、日本考古学協会設立は、考古学の発展に大きく貢献したといわねばならない。そのご続々と行われた発掘調査のなかで、とくに馬具研究に新しい知見を与えた報告として注目されるのは、滝口宏等の『上総金鈴塚古墳』(1951)、京都大学考古学研究室編『大谷古墳』(1959)、斉藤忠・大塚初重『三昧塚古墳』(1960)等であろう。個々の資料の集積とともに、古墳の変遷の問題についても、後藤守一『古墳の編年的研究』(1958)や、斉藤忠『日本古墳の研究』(1961)などによって様々に論じられた。また、土師器や須恵器の編年論としては、森浩一「和泉河内窯址出土の須恵器編年」(1958)や横山浩一「手工業生産の発展」(1959)などがあげられる。環状鏡板付轡との関係で注意しなければならないのが鉄の利用の問題であるが、この時期における研究として、森浩一「古墳出土の鉄鋋について」(1959)、和島誠一「鉄器の分布」(1960)がある。
     こうした考古学界全体の隆盛のなかで、馬具研究に飛躍的前進をもたらしたのが小野山節「馬具と乗馬の風習」(1959)による編年研究である。小野山は、古墳時代の馬具を「馬具を出土した古墳の形態や、その他の副葬品による年代の考察を参照しながら」4期に分類し、第1期を5世紀、第2期を5世紀末から6世紀前半、第3期を6世紀後半、第4期を7世紀にそれぞれ比定した。
     第1期は「もっぱら外国製の馬具が使用された時期」とされ、大阪府長持山古墳、和歌山県大谷古墳、熊本県船山古墳などから出土した馬具があてられた。環状鏡板付轡については、船山古墳例および大阪府七観古墳例を根拠として、船山古墳出土の鉄製輪鐙とともに、この時期から使用されたものとした。そしてこれらはの馬装と系統を同じくするものであっても、けっして新羅から直接輸入されたものではなく「その源流が中国にあろうことはかたくないが、これらの原形と考えられている馬具と、日本の古墳から一般的に発見される馬具とのあいだには、形式上、なお大きな断絶があって、日本が馬具を求めた国は、まだ決められない」とする一方、乗馬の技術については、「日本がくわだてた、大規模な朝鮮半島への侵略と、それにともなう外国軍隊との交戦を契機として学びとったもの」とし、小林行雄と同様の考え方を示した。
     第2期は、あたらしい型式の馬具がひき続き輸入されるとともに、馬具の製作が普及した時期とされ、群馬県薬師塚古墳、京都府穀塚古墳、福岡県寿命大塚古墳、大阪府南塚古墳出土の馬具などがあてられた。そして前世紀以後の馬具のつくり方に精粗の二種類がみられることを、輸入品とその模倣品の違いとしてとらえた。
     第3期の馬具としては、沖ノ島第7号祭祀遺跡、大阪府海北塚、栃木県大塚新田古墳出土例などがあてられ、ひきつづき馬具が輸入されるいっぽうで、国内における制作技術が進歩した点が、この時期の特徴としてあげられるとした。
     第4期の馬具として、福岡県宮地岳嶽古墳、群馬県白石二子山古墳、千葉県金鈴塚古墳、山口県スクモ塚古墳出土例などがあてられているが、6世紀末から7世紀の馬具の注目すべき変化として、例えば法隆寺に伝世されている杏葉のように、立聞に鉸具を付けることが行われるようになったことが注意されている。また6世紀後半から7世紀にかけて、記紀の記載にも馬に関する記事が多くなり、いっぽうこの時期はまた、環状鏡板付轡だけを出土する古墳が非常にふえてくることが指摘されている。
     以上のような小野山の編年的研究は、そこにまだ多少の問題は残していたが、古墳時代の馬具全体を総合的に捉えて編年したことは大きな業績であった。これによって、古墳時代の馬具のいわば見取り図ができたわけで、そのご開発ブームに伴う発掘調査が非常にふえてくるなかで、多くの研究者がこれを基準に、全国的な視野で馬具を捉えられることになり、豊富な出土例が、とにかく一つの基準の下で語られるようになったのであった。その結果、小野山編年はさらに肉付けされ、またそのなかにある矛盾は矛盾として明らかになってきたのであった。ただ、小野山の編年における年代観には、「馬具と乗馬の風習」が概説のための論述であったためもあって、はっきりした根拠が示されておらず、その点は大きな問題を残していた。 
     小野山はその後、自分の編年を少しずつ改め、より精密なものにするとともに、その年代観の根拠についても漸次明らかにしていった。まず考古学協会昭和37年度大会で「日本発見の初期の馬具」と題して発表し(1962)、初期の馬具である木心鉄板張輪鐙のうちに新旧二つのタイプがあることを指摘した。
    それによると、古い形式の木心鉄板張輪鐙としては、滋賀県新開古墳、大阪府七観古墳、岐阜県八幡古墳出土例があげられる。これ等の古墳から出土した馬具の共通点として、①鉄製の覆輪と海、磯金具、②小型の三環鈴、③馬づら側に銜の環がつく、④杏葉が使用されず、特種な馬鐸を下げるという4点が示され、「この一群の馬具は、新羅の古墳から発見されるものや、日本の古墳時代に流行した形式に先行するものであって、しかも漢代馬具の要素を残しているように思われる」と結論づけた。
    またこれに対して、新しい段階の鐙として、大阪府長持山古墳や愛知県志段味古墳出土例があげられ、その特徴として、柄が細長くなり、その頭が角張る一方、輪の上部に比して踏み込みの部分が厚くなったということなどが指摘された。
    次に小野山は、日本考古学協会昭和39年度大会において「剣菱形杏葉をともなう馬具の性格」と題して発表し(1964)、f字形鏡板付轡と剣菱形杏葉、あるいはそのいずれかを伴う馬具を分析した。
     さらに先の研究発表と同じ題名の論文「日本発見の初期の馬具」(1966)では、再び江上波夫の「騎馬民族日本征服説」を批判し、同じ中国文明から強い影響を受けた朝鮮と日本の馬具との間に類似関係があるのはむしろ当然のことであり、その関係が具体的にどのようなものであったのかを問題にするためには、彼我に認められる差がいかなるものであったのかを捉えなければならず、これは日本の馬具の由来をあとづける仕事につながるとして、再び木心鉄板張輪鐙に伴う初期の馬具について論じた。小野山は先に発表した諸説に加えて、木心鉄板張輪鐙の新旧の2種について、そこに時間的な変化だけでなく、製作地の相違を推定した。そしてさらに、長持山古墳や東京都亀塚古墳出土品に代表される、新しいタイプの木心鉄板張輪鐙の「セット」が使用された年代を、長持山古墳が允恭天皇陵の陪塚であるという推定を根拠として、5世紀中頃以後という判断を示した。また、丸山古墳が応神天皇陵の陪塚であり、七観古墳が履中天皇陵の陪塚であるという推定を根拠に、これ等の古墳から出土する古いタイプの木心鉄板張輪鐙を指標とする馬具の年代を5世紀前半代を中心とする時代と考えた。そして銜と鏡板の組み合わせ等から、その製作地を中国本土かそのごく近接した周辺と推測した。環状鏡板付轡についても、七観古墳例をもとに、この時期から使用されたと考えた。
     以上のように小野山による一連の論文により、とくに5世紀代の初期の馬具の様相がかなりはっきりししてはきたが、その編年の年代の根拠が示されたことにより、そこに大きな疑問が残されることになった。即ち、小野山は長持山古墳や丸山古墳をそれぞれ允恭天皇陵、応神天皇陵の陪塚と推定し、おのおのの天皇の文献史学的仮設に基づく年代から、それらの古墳の年代を割り出したのであった。これには少なくとも三つの問題がある。一つは陪塚をめぐる問題で、それ等の古墳がはたして本当に各天皇陵の陪塚であり、かつまた陪塚を天皇陵との年代差はどの程度のものであるのか等。第二に、文献史学による天皇の崩御年代を、古墳出土遺物にそのまま当てはめることの可否。第三に、森浩一等が指摘しているように、天皇陵の認定の問題である。小野山自身、当然これ等の問題を承知した上でその年代観を提出しているわけであり、また馬具に関する限り大きな矛盾がおきているわけではない。しかし、馬具のみならず、古墳時代の研究全般に関わる課題として、今後問題にせざるを得ないであろう。
     小野山による編年研究のいっぽうで、この時期には馬具についての様々な論文が発表された。鈴木治の「東西口籠考」(1962)は、銜を伴わない面繋についての考察で、前述の増田清一「埴輪馬にみる頭絡の結構」との関係で注目すべきものである。鈴木治「日本鞍の様式的変遷について」(1961)、増田清一「古墳出土鞍の構造」(1965)は古墳時代と正倉院の鞍とを比較し、前者のそれが前後輪とも垂直であるのに対し、後者の後輪傾斜鞍が騎者の座として強くなっていると論じた。また増田は『日本の考古学5(古墳時代下)』の馬具の項で、再び金属製品を伴わない馬具の存在の可能性を主張し、仁徳天皇陵出土の埴輪馬にみる頭絡のような水勒型式の馬具が、5世紀代の金属製馬具以前に存在したと論じた。そして前述の小林行雄による前期には騎兵用の武器武装がみられぬという批判に対して、「武器が歩戦用の短剣であっても一向にさしつかえがなく」「敵に近づくと馬からおりて戦」ったのであり、江上波夫の説くように重装備の騎馬民族ではないが、軽装備のそれが侵入して、馬具をもたらした可能性はあると反論した。

  9. 馬具研究の新たな展開
  10.  1960年代後半以降になると、馬具研究は新たな展開を迎えた。小野山節を中心にして全国的視野に立った編年研究が進む一方で、豊富な発掘例を基にして、各地方ごとの馬具研究が開始され、それぞれの地方で出土した馬具が集成されたり、その編年研究が行われ、またそれ等の馬具の地方的意味が論ぜられたりするようになった。そうした研究は、かつて藤森栄一や後藤守一による古墳の地域的研究の一環として先鞭つけられたものであるが、新たな展開は開発ブームに伴う発掘調査の増加のために比較にならぬほど多量の遺物をもとにしたものであった。
     望月菫弘・若月俊平編『駿河池田山古墳』(1968)は、静岡県内の118基にのぼる古墳から出土した馬具を集成し、伴出した須恵器をもとにそれらのうちの代表的なものを5期に区分することを試みた。またこれ等の古墳における馬具の組み合わせに注目し、118期の古墳中一番出土の例が多いのが轡で74例60.5%もあり、その中には轡だけの発見例41例を含んでいるなどの数字を導きだした。そして轡のみのものは輓馬用のものであり、轡と鞍・鐙を有する例が、輓馬だけでなく騎乗用の馬具であり、轡と鞍それに雲珠や杏葉を加えた9例の馬具は儀仗的なものであると説いた。しかし轡のみ出土するということから直ちに輓馬と推定したことは、いささか早計であったといえよう。
     渡辺一雄は『中田装飾横穴』(1971)で福島県の古墳から出土した馬具を集成し、その59%から轡が発見されたと報告した。また馬目純一は同じ報告書で鐘形杏葉の編年を試みている。
     大和久晋平「栃木県における横穴式石室と馬具の変遷」I・II(1971)は、栃木県から出土した馬具を集成し、それ等を小野山の編年に従って4期に分類した。また大和久は『栃木県の考古学』(1972)で環状鏡板付轡について触れ、栃木県内の古墳から出土する最も通有な轡であって、6世紀中葉から用いられ始めたとした。
     福岡市教育委員会『和白遺跡群』(1971)は上和白古墳群の9基の古墳を報告するととともに、その副葬品として馬具の比率の高いことに注目し、その被葬者を磐井の乱後設置された粕屋屯倉の外縁部にいた何らかの軍事的性格をもった集団と推定した。
     小久保徹は『黒田古墳群』(1975)で埼玉県内の21期の古墳から出土した馬具を集成し環状鏡板付轡の出現を6世紀中葉とされる羽生市永明寺古墳例に求め、その後片袖型横穴式石室の盛行する6世紀後半から7世紀初頭ころまで、環状鏡板付轡を中心とする馬具の副葬が行われたと説いた。
     大谷猛は『法皇塚古墳』(1976)で同墳出土の馬具を小野山節の編年に従って分析したが、さらにf字形鏡板や剣菱形杏葉が消失し、それにかわる種々の馬具が出現してくることの背景を追求すべきことの必要性を説いた。また環状鏡板付轡が実用的馬具であり、他の装飾的要素の強い鉄地金銅張鏡板を持つ馬具が儀仗用のものであるという図式的理解に疑問を提出し、装飾的馬具にも磨耗のあとが認められる例のあることか一方、逆に環状鏡板付轡に鉄地金銅装の馬具類が付属する例のあることを示し、環状鏡板付轡即実用品という考えを否定した。 
     『平群・三里古墳』(1977)において千賀久は奈良県の馬具を集成し、小野山の編年に従って、これ等の編年を試みる一方、環状鏡板付轡に「環体」が円形のものと楕円形のものとがあることを指摘し、また引手が銜とともに「環体」につながるか、あるいは別々に「環体」につながるかの違いで新旧に分けられると説いて、前者がより古いとした。同じ報告書において河上邦彦・右島和夫は全国から出土した鐘形杏葉を集成し、その編年を試みた。それによると、鐘形杏葉は4期に区分することが可能であり、I期(6世紀はじめ)には大阪府南塚古墳、II期(6世紀前半)には大阪府山畑33号墳、III期(6世紀中葉~後葉)には岡山県岩田14号墳や奈良県三里古墳、IV期(6世紀末~7世紀はじめ)には福島県中田1号横穴や岡山県王墓山古墳から出土した杏葉をそれぞれあてることができるとした。
     小野山節「鐘形装飾付馬具とその分布」(1979)もまた鐘形杏葉及び鏡板をとりあげ、前述の渡辺一夫、河上・右島両氏の編年研究について、「杏葉の形態変化だけにとらわれて、鏡板はほとんど問題にされず、さらに鏡板や杏葉に伴って用いられる鉤金具ならびに辻金具を含めた馬具を問題にするという観点に欠けている」として批判する一方、自己の編年観を提出した。それによると杏葉と鏡板を含めた鐘形装飾付馬具は4期に分類でき、1期(540~550年代)に南塚古墳・山畑33号墳、2期(560~570年代)に神奈川県室ノ木古墳・宮崎県持田49号墳など、3期(580~590年代)に三里古墳や岩田14号墳、4期(601~610年代)に中田1号横穴・王墓山古墳などからそれぞれ出土した馬具があてられ、その年代は古墳のそれではなく、馬具の推定製作年代であるとした。そして室ノ木古墳出土の鐘形鏡板付轡と古墳そのもの(7世紀前半代)との年代差を、馬具が伝世したと考えることによって説明し、馬具の伝世の例として熊本県才園古墳や埼玉県稲荷山古墳出土のf字形鏡板付轡などを指摘した。さらに小野山は鐘形装飾付馬具の分布と製作技術の分析から、その製作地を畿内に求め、6世紀中葉以降に支配的な地位にあった「大和王朝」によって配布された馬具の一種であると結論した。そして、小野山が「河内王朝」によって配布されたとするf字形鏡板付轡と剣菱形杏葉の分布と比較し、「河内王朝」の支配者が政治的な結びつきをもっていた範囲は、「大和王朝」のそれよりやや広いと説いた。
     その年代の根拠がまたもや示されていないと問題はあるものの、小野山のこの論文によって、5世紀代の馬具に引き続き、6世紀代の馬具の様相がある程度詳しく判明してきたといえる。とくに、各王朝による馬具の配布とその伝世という問題の提起は、非常に興味あるものであり、馬具研究に新しい視点を提供したものとして注目される。
     以上のように鐘形装飾付馬具についての研究が進む一方、鐙についても多くの論文が発表された。増田清一「鐙考」(1971)は東京都亀塚古墳出土の木心鉄板張張輪鐙をとりあげ、それは要所要所だけを鉄板で装したものであり、日本にはこのように鉄装の輪鐙しかなく、装飾性に欠けていると論じた。また鐙の編年を試み、三角錐形木心壺鐙は最も年代の遡るものであり、5世紀代には木心鉄板張輪鐙、金属製輪鐙が出現し、6世紀代になると木心鉄板張輪鐙が姿を消して木心鉄装の杓子形壺鐙が出現したとした。そして5世紀以後、古墳時代末期まで終始流行したのは三角錐形壺鐙であり飛鳥・奈良時代に盛行し、その後の舌長鐙へと発展したと型式変遷を述べた。この編年自体は多くの問題を含んでいるが、とくに壺鐙がどのように出現し変化していくのかということの分析が、馬具全体の編年に大きく役立つことを示したという点で、重要な論文であった。
     樋口隆康「鐙の発生について」(1972)は、中央アジアの騎馬民族に鐙が出てくるのは7世紀以降であるが、中国では4世紀初頭の騎人俑に足踏みとしてのみ利用された片側だけにつけられた鐙の存在を指摘し、中国における鐙の発生を4世紀初頭と推定した。
     小野山節は考古学会例会で「5世紀の馬具」と題する発表を行い(1979)、①これまでに江田船山古墳の出土例をもとに5世紀の馬具とされていた鉄製輪鐙が6世紀第二4半期以降に下げられること。②七観古墳出土品から鉄製環状鏡板付轡を5世紀からあったとしてきたが、後世の混入の疑いが強く、その出現は6世紀中葉から後葉である。③そのような環状鉄製轡のかわりの「簡素な轡」として、5世紀代には棒状鏡板や十文字系の鏡板をもつ轡が用いられた。という3点を表明した。
     小野山はその根拠を示すために、鐙の形態変化を中心とした馬具の編年を提出した。それによると、4世紀末ないし5世紀初頭に、応神天皇陪冢である丸山古墳やまた新開古墳などから出土した古式の馬具が輸入された。これらは日本ではあまり流行せず、ついで5世紀中頃に、允恭天皇陵陪塚である長持山古墳出土品を代表とする馬具類が輸入された。剣菱形杏葉とf字形鏡板付轡を指標とするいわば長持山スタイルと呼ぶべき馬具はその後5世紀の日本に広く流行した。そしてこれら5世紀の馬具に共通するのは木心鉄板張輪鐙であるが、それは6世紀第1四半期まで続き、その後6世紀第2四半期になって鉄製輪鐙が輸入されるに及んですたれる。また5世紀末に杓子形木心鉄板装壺鐙が登場し6世紀前半に流行したが、これは改良されて三角錐形木心壺鐙となり、6世紀第2四半期以降に流行した。環状鏡板付轡は鉄製輪鐙と同時に、即ち6世紀第2四半期に輸入されたものである。そして、七観古墳の三角錐形壺鐙や環状鏡板付轡は他の古墳からの混入であり、江田船山古墳は6世紀代の古墳とすべきであるとして、自身のこれまでの編年に修正を加えた。
     ところで、小野山はこの発表において、矩形の立聞をつけた轡の形態を、群馬県観音山古墳から出土した青銅製環状鏡板付轡の形を、鉄製で模倣したものとしたが、これには疑問がある。

第二節 馬具研究史の問題点-鉄製環状鏡板付轡をめぐって

 古墳時代馬具の研究史をごく短く概括してしまうと、後藤守一によって形式分類され、小野山節によって編年されたといえる。もちろん多くの諸先学の努力によって築きあげられてきたのであるが、その成果が二人に代表されるという意味である。前述の考古学会例会(1979)で発表された小野山の修正された馬具編年が、今日における馬具研究の到達点であるといい得る。
 そこに一つの問題を指摘できるとすれば、かつて小野山自身が述べたように、その研究が「華麗な馬具」に集中し、「簡素な国産馬具を用いた、乗馬の風習の、より一般的な」浸透についてあまり顧みられなかったということが挙げられる。
 周知のとおり、古墳時代後期を代表する遺物の一つに馬具が数えられる。その中で最も一般的な遺物は轡であり、さらに環状鏡板付轡が多くを占める。したがって、環状鏡板付轡は後期古墳時代を研究する上で、最も基本的な、重要な遺物といわねばならない。
 にもかかわらず、研究史の中で、環状鏡板付轡は不当に看過されてきたといってよい。後藤守一によってある程度の形式分類がなされたあと、ほとんど顧みられることがなかった。馬匹生産との関連でこれら簡素な馬具にはじめて目を向けた藤森栄一も、その量に注目したに過ぎず、遺物そのものについての考古学的分析まで行おうとはしなかった。鈴木治はユーラシア大陸・朝鮮との関係で取り上げたが、あくまで概観に過ぎなかった。小野山節は七観古墳出土品と伝えられる矩形立聞付環状鏡板付轡を編年上どう扱うかということを検討するために、江田船山古墳出土の素環状鏡板二条線引手三連銜轡等を問題にせざるを得ず、環状鏡板付轡の出現を6世紀中葉とし、また鉸具付環状鏡板付轡がかなり遅れて出土するということに気づいてはいたが、種々の環状鏡板付轡全体を把握するには至らなかった。大和久晋平や千賀久は、環と銜と引手の結合法によって、新旧の要素が区別できるのではないかと考えたが、あくまで部分的な着想に過ぎず、環状鏡板付轡全体の様相を解明するところまでは遠く至らなかった。
 藤森栄一が古墳時代の馬匹生産を問題にしたことは既に記したが、その後、大塚初重『信濃・長原古墳群』(1968)は、その問題をさらに発展させ、積石塚との関係も含め、5~6世紀の善光寺平における帰化人による国家的要請に基づく馬匹生産と、その後の官牧への発展を論じた。また森浩一は『大阪府史』(1978)において、摂津・河内の牧の古墳時代における起源を説き、漁労文化と製塩そして馬匹生産との関連を論じた。このような古墳時代の馬匹生産や、後の牧への発展などの研究をもう一歩押し進めるために、そこではどのような馬具が使用され、それがどのように変化していったのかを具体的に解明することが、非常に重要な作業となってくるだろう。そしてそれは当然、環状鏡板付轡の型式分類と編年研究に連なる。また直木孝次郎『古代兵制史の研究』(1968)は考古学の成果を援用しつつ、文献史学の立場から、古代日本における騎兵の成立と発展を論じているが、そのように各地方における騎兵の成立の問題や、さらに日本国内全体の馬匹経済といったことを問題にするとき、当然それは鉄製環状鏡板付轡の分布論に連なってくる。さらに、渡来人による馬匹生産の招来を考えるならば、環状鏡板付轡の系統が問題にされよう。そして、福岡市教育委員会『和白遺跡群』(1971)のように、環状鏡板付轡を有する古墳の被葬者の社会的性格、政治的性格を求めようとするならば、その前に各種の馬具の中における環状鏡板付轡の性格を分析しておく必要があるだろう。その意味で、「社会構成」や「共同体」をとくに問題にした近藤義郎『佐良山』(1952)が、中宮1号墳から出土した初期の環状鏡板付轡をほとんど問題にしようとしなかったのは、惜しまれるところである。そして、大谷猛『法皇塚古墳』(1976)のように馬具の実用性と儀仗性とを論ずるためには、いわゆる装飾的轡を含めて、その機能や用途が問題とされなければならないであろう。さらに、環状鏡板付轡の制作技術の細かい分析や、その発達を跡づけて行く作業は、農耕具に対するそれと並んで、古墳時代の鉄器生産を考える上での重要な問題の一つになるであろうし、またそれは鉄製環状鏡板付轡そのものの編年にも関わる課題である。
 以上で繰り返し述べてきたように、今日まで看過されてきた鉄製環状鏡板付轡についての研究は、後期古墳時代の諸問題と関わって重要な意義を持つと考えられるのである。

1979年12月 卒業論文草稿の一部 岡安光彦
 

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