三次元計測をめぐる諸問題
人文科学とくに考古学において、研究の対象とする資料の3次元情報の取り扱いを、将来的にどのように進めていくべきか、議論をするために必要な、基本的な知識や考え方を紹介します。
まずはじめに、現在の考古学がどのように3次元情報を取り扱っているかを考え、工学的方法による3次元計測の考え方と、どこが同じでどこが違うのか、具体的に対比してみます
第1章 考古学における3次元形状の2次元記述とその限界
1.1 遺構の2次元表現
考古学でよく用いられる遺構の平面図を具体例として考えてみます。日本の考古学では、発掘した遺構を上端と下端の2本の曲線で表現するのが一般的です。表現しきれないときには、間にもう1〜2本、補助的な線を入れる場合もあります。また多少なりとも立体的に見えるようにするため、ケバを入れる場合もあります。
慣れた考古学者なら、そうした単純な線のみで表現された平面図形を見ただけで、それが例えばどのような住居址なのか、その立体的な姿を、頭の中で組み立てることができるはずです。それが可能なのは、その考古学者自身が、既にたくさんの住居址その他の遺構を見て来た経験があり、さらに図面の描き方には、考古学者の間に一定の「不文律のようなもの」があるからです。
ただし、その「不文律のようなもの」は、実際にはかなりあいまいなので、経験を積んだ考古学者といえども、時には他人の描いた遺構その他の図を読み取れない事態も発生します。とくに、それまで発見されたことがないような、新しいタイプの遺構などが発掘された場合などは、なおさらのことです。
そこで、平面図形だけでは不足している情報を補うために、考古学では立面図や断面図、そして写真が提供されます。このようにして、研究者は、遺構の3次元形状に関する情報を相互にシェアし合い、考古学を発達させてきました。
1.2 日本と欧米:2次元表現をめぐる文化的文脈の相違
ところで、先にわざわざ「日本の考古学では」と断わったのは、日本と欧米の考古学者の間で、平面図の描き方に、若干差があるように思われるからです。欧米においても、件の「不文律のようなもの」は、あいまいで、研究者によって図の描き方に差があるのですが、概して、欧米の研究者の図面の方が、遺構の立体的な表現にこだわっているのではないでしょうか。少なくとも、遺物の図に関しては、まちがいなくそれを指摘できます。
あるいは、考古学研究者の図の描き方における彼我の相違は、歴史的あるいは文化的文脈に経緯依存するのかもしれません。つまり、少し乱暴な言い方をすると、浮世絵などに示されるような線による表現を、画像情報伝達の基本とする文化と、泰西名画のように3次元空間を意識した面による立体表現を画像情報の伝達の基本とする文化的文脈の相違が、彼我の間にあるのではないかと思われるのです。
最近、欧米の考古学者、とくに新しい情報システムの導入に積極的な研究者の間で、3Dという言葉がキーワードの一つとなりつつあり、遺構や遺物の情報をなんとか3次元でやりとりできないか、というような議論が盛んになっているのも、そのような歴史的あるいは文化的下地があると考えると、理解しやすいような気がします。
とはいえ、そうした文化的背景があるかもしれない日本の考古学者といえども、遺構の3次元情報に淡白でばかりはいられないのも事実です。たとえば前方後円墳の研究一つを考えてみても、その立体的形状をめぐる情報が非常に重要であることは、多くの研究者に指摘されています。横穴式石室についても、また然りです。
平面図・立面図・断面図・写真は、もちろんこれからも考古学研究に欠かせない重要な武器ですが、さらに立体形状そのものを比較する術(すべ)が、考古学者の武装システムの中に加えられれば、さまざまな分野の研究が大きく飛躍する可能性があるのではないでしょうか。欧米の考古学者の「3D」に対する関心も、そうした期待があるからこそと思います。
1.3 グーテンベルクの技術パラダイムからの脱却をめざして
考古学研究者が、互いに情報をシェアする方法として、発掘調査報告書はきわめて有効な媒体でした。東西における、立体表現のしかたをめぐる好みはともかくとして、紙という2次元のメディアに記録を保存するという枠組みの中で、世界の考古学は発達して来ました。そうした意味で、考古学における情報伝達は、グーテンベルクの印刷技術という、かなり古典的な技術パラダイムに依拠しています。
しかし、今こそそうしたグーテンベルクの技術パラダイムから脱却し、3次元情報を3次元のまま扱う、新たなデジタル技術パラダイムへとシフトすべき時が来ているのではないでしょうか。既に、理論的には、それが可能な技術基盤が、広汎に社会に普及しつつあります。
ただし、いささか回りくどい言い方になるかも知れませんが、考古学における情報の記録や伝達をめぐる技術的なパラダイムシフトは、あくまでも理論的に可能になっているというだけで、必ずしも現実に可能になったというわけではありません。というのは、考古学的な情報というのは、理科学的あるいは工学的な情報と違って、人文科学的な知と深く結びついており、単純にある一定の精度を満たしていればよいというものではないからです。
考古学者が満足できる3次元情報は、考古学者の人文科学的な知と分かち難く結びついています。それが理解できるのは、考古学者自身をおいて他にありません。ですから、我々考古学研究者は、情報科学者の助けは借りつつも、自分達自身の3次元計測技術を、自分達自身で開拓して行く必要があります。
かつて、測量学や建築学などの異分野の知識や技術を取り入れながら、独自の計測と図化の技術体系を構築して来たように、考古学者はこれからデジタル技術を自分達自身のものとして、新たな枠組みを構築していく必要があります。その点、現在の考古学者は、保守的というと聞こえがよいけれど、はっきりいって随分と怠惰になってはいないでしょうか。
考古学の記録に、はじめて写真技術を利用した頃には、それはそれで多くの困難があったと思われます。平板測量を導入した際にも、それなりの勇気や気概が必要だったでしょう。そのようにして考古学の基礎的技術を進歩させて来た先学の後を継いで、我々もまた、新たなデジタル技術を活用した考古資料の3次元計測技術の構築に取り組むべき時が来ています。
もちろん、そうはいってもゼロから技術を作り出すわけではなく、工学技術者達が構築した技術的枠組みを、どう活用するかというだけの話ですから、何も高度な数学の知識やプログラミング技術が必要なわけではありません。要は、どの技術がどんなふうに使えるかを把握し、それを基に自分達の作業に必要なシステムをデザインすればよい。自分達が必要とする技術的な仕様を、的確に工学技術者に伝えられる能力さえ獲得すればよい、ということです。
ここでは、そのために必要と考えられる情報を、できる限り紹介して行きたいと考えています。
第2章 3次元形状と計算機
2.1 人の視覚と計算機の画像情報との違い
2.1.1 汝自身を知れ
まずはじめに確認しておかねばならないのは、計算機が扱う3次元形状や3次元画像は、人間の視覚とそれに基づくさまざまな認識とは、よくも悪くも根本的に異なるという点です。
考古学者を含めて、人文科学系の研究者は、意外とこの点を忘れがちです。そのため、人間の視覚を基準に判断して、機械による計測や、計算機による計測データの処理に対して、一方的に過大な期待を抱いたり、逆にその結果を過少に評価してしまう傾向が強くあります。計算機やその周辺機器に対して、我々はもう少しクールな態度で臨まなければならないのではないでしょうか。そのためには、やはり一定の知識が必要です。
一定の知識とは、何も計算機や周辺機器についての知識だけを意味しているのではありません。むしろ忘れてならないのが、我々自身の視覚についての知識です。実際のところ、自分達の視覚について、考古学者は驚く程に無自覚あるいは無知、といってよいのでしょう。
人文科学系の学問の中でも、考古学はとりわけ「ものを見る」ことを学問の基礎として成り立ってきたと思います。ところが、我々考古学者は、自分たちが「ものを見る」ということが、本質的には一体どういうことなのか、あまり深く考えてきませんでした。全く無頓着に、とにかく遺跡や遺物を「見」てきたといえます。
そこでここでは、計算機のそれとの違いを明確にするためにも、考古学における視覚ということを、最近の認知が学の成果を取り入れることによって、とりあえず簡単に押さえておくことにしたいと思います。
2.1.2 「生態学的認識論」または「アフォーダンス理論」
人間の視覚は、単に人間の眼球の解剖学的あるいは光学的な分析、さらに視覚の処理系としての脳の働きを分析しただけでは把握しきれない、人間の肉体全体、さらにそれが置かれた環境との関りをも含めて考えなければならない、非常に複雑なシステムです。そうした論点に立って、人間の視知覚の研究に着手したのが、アメリカのギブソン(James J.Gibson(1904-79) )でした。彼の研究は、「生態学的認識論」あるいは「アフォーダンス理論」などの名称で、認知科学の一分野として後続の研究者に引き継がれ、今日大きな発展を遂げています。
我々考古学者も、そうした新しい研究分野の成果を吸収して、「考古学における視覚」とは何かを、必要に応じて、少なくとも一定程度は明確に対象化しておかねばならないと思います。でないと、計算機による3次元形状計測と、人間ないし考古学者の視覚の相違を明確にし、その適切な使い別けを実現できません。
「アフォーダンス理論」そのものについては、大変分かりやすい入門書があるので、へたな説明をするかわりに、それを紹介しておきます。佐々木正人という方の書かれた『アフォーダンス−新しい認知の理論』という本で、1994年に岩波科学ライブラリーとして刊行されています。ここでは、そうした書物を通して、「アフォーダンス理論」について一定の理解があるという前提で、以下の議論を進めます。
2.1.3 須恵器の「不変更」
一つの具体例として、「アフォーダンス理論」の立場から見て、考古学者が何かの遺物、例えば須恵器を実測するという行為をどのように捉えられるか、私なりの考えに従って、ごく簡単に説明してみます。
須恵器を実測する時、考古学者はその須恵器のどの部分を実測するか決めて、その部分の「形」を図に表現します。ただ、その時、ある特定のアングルから須恵器を見つづけることは、まずないはずです。いろいろな方向や距離から、矯めつ眇めつ、とみこうみ、対象を徹底的に観察するのではないでしょうか。また単に目で見るだけでなく、杯などであれば手にとって、いろいろな角度、いろいろな方向に傾けたりひっくり返したりすると思います。持ち上げられないような大甕でも、とくに口縁の辺りなどを、せっせと撫でたり摘んだりするのではないでしょうか。 考古学者はこの時、何をしているのでしょう。単に須恵器断面の客観的な形状を測っているのではないはずです。ギブソン風にいうと、考古学者はその時、測っている須恵器の「不変項(インバリアント)」を知覚しようとしているのです。つまり、姿勢や視線を変えるのにしたがって、さまざまに変化する須恵器から、考古学者にとって不変なるものを知覚しようとしているのです。
この辺は、先に紹介した佐々木氏の著書によく説明されていますが、人間の視覚は、動きの中から導き出されると考えられます。考古学者に限らず、何かを見ている人は、頭、眼、首、胴体、下肢などの全身をよく動かします。この動きが決定的に重要で、動きによる「変形」から「不変なるもの」が知覚されます。
視覚の場合、身体は非常に複雑に動くので、佐々木氏によると、観察者が不変更をピックアップするために利用している変形を記述することは、既成のすべての幾何学を動員しても難しいだろう、ということです。この辺が、計算機と人間の視覚の、根本的に異なるところです。機械の方がずっと単純です。
計算機は、例えばレーザースなどを利用して、対象とする須恵器のある一点の3次元的な位置と色にかかわるデータを計測します。それらの点群の集合が、須恵器の形状や表面の色を示すデータとなります。それ以上でも、以下でもありません。 これに対して、佐々木氏の言葉を借りて「生態学的認識論」に則して表現すると、考古学者が須恵器を実測する時に見ているのは、実は須恵器の「形(form)」ではなく,そのリアルな「姿(shape)」です。そして、「姿」は「形」からではなく、それ自体は「形」をもたない「変形」から知覚されるのです。
考古学者が視覚を通して知覚し、その「姿」を2次元平面上に記述した須恵器の実測図は、単に須恵器の「形」を表現したものではなく、考古学者が知覚した、須恵器に具現されている「不変項」を表現したものといえます。当然のことながら、人間の視覚と手作業により製作された実測図は、計算機によって得られた単純な点群のデータからなる図に比べれば、はるかに大量の情報を内包しています。
以前、大阪大学の福永先生に、非常に精度の高いレーザースキャナで3次元計測し、そのデータを基に、やはり高精度の3次元造形装置で製作された、三角縁神獣鏡のソリッドモデルを見せてもらったことがあります。その時、福永先生に「どう思いますか」と尋ねられましたが、その言葉には、言外に「(現物に代わる考古学的資料としては)使えないよね!」という気持ちが、明らかに読み取れるました。
その鏡のレプリカの製作者は、かなり自信をもっていたようですが、我々考古学者の眼から見ると、何か非常にのっぺりした感じのものに見えました。レーザースキャナなどで3次元計測したデータの画像やソリッドモデルは、多くの場合、のっぺりした不自然なものに見えます。須恵器だったら、むしろ経験を積んだ考古学者がササッとメモした程度の図の方が、よほどリアルに見えるくらいです。計算機による3次元情報と、考古学者の知覚をもとにした実測図との間には、かなりの距離があります。そしてその違いは、次に説明するように、単に情報量の違いという問題を超えているのです。
2.1.4 考古学者にとっての須恵器のアフォーダンス
アフォーダンスとは、何か。それは環境が動物に提供する「価値」のことである。それは事物の物理的な性質ではなく、動物にとっての環境の性質である。それは知覚者の主観が構成するものではなく、環境の中に実在する、知覚者にとって価値のある情報である。物体、物質、場所、事象、他の動物、人工物など、環境の中にある全てのものはアフォーダンスをもつ。
以上は、佐々木氏の著作から少し要約して引用した、アフォーダンスについての説明です。考古資料の場合を例にとると、同じ須恵器の杯を手にしたとしても、須恵器とその人とをとりまく環境によって、須恵器が何をどうアフォードするかは、大きく変わってきます。例えば、古墳時代の馬具の研究者であれば、古墳から一緒に出土した須恵器は、馬具の年代を知るための貴重な手がかりをアフォードしてくれます。須恵器そのものの研究者には、もう少し豊富な情報をアフォードしてくれるでしょう。一方、旧石器時代の研究者には、あまり多くをアフォードしないかもしれません。
さらに、古墳時代の研究者だろうと、旧石器時代の研究者だろうと、そもそも考古学者でなくても、もし須恵器の杯を手にとった人が酒飲みであれば、その杯は酒器としてのアフォーダンスを有しているといえます。
ずいぶん前の話ですが、明治大学の院生の頃、父の友人で詩人の宗左近さんに招かれて、ごちそうになったことがあります。その時、宗さんのお宅では、沢山の須恵器や土師器を酒器に、越の寒梅を惜しげもなく注いでくれました。私は次々に差し出される土器の年代を答えながら、越の寒梅をたっぷり飲んで、ついには大分悪酔いしてしまいました。
この時のことを、単純に顧みると、私は宗さんに考古学の知識を、宗さんは私にごちそうと有名なお酒と大人の酒席をアフォードし、須恵器は私には直接的には考古学的情報を、間接的には酒とごちそうにあずかれる機会を、宗さんには自分の骨董品に対する愛情と満足を、越の寒梅は味と酔とをその場にいた人たちにアフォードした、ということになるでしょうか。例が少しくだけ過ぎたかもしれませんが、同じ須恵器でも、そのアフォーダンスは、対する人や、とりまく環境によって大きく異なるということの具体例を示したつもりです。
同じ須恵器を、同じように須恵器を専門に研究している考古学者が実測したとしても、その須恵器と考古学者をとりまくアフォーダンスの関係は、自ずと異なります。当然、同じ須恵器を異なる考古学者が実測すれば、アウトプットされる実測図は異なります。それどころか、同じ人間が同じ遺物を実測したとしても、その度に実測図は変わってきます。自然科学や工学の世界では、誰がいつやっても同じ結果が出なければいけないのですが、人文科学の世界、考古学における実測図では、必ずしもそうではありませ。そんなに単純ではないからです。
考古学の世界では、「あいつは物が分かる」というような評価のしかたをします。考古学的な資料がアフォードしている情報を的確に引き出せるかどうか、というのがその評価の決め手です。ただし、同じように「物」が分かっている考古学者でも、二人いれば同じ遺物の実測の結果は異なります。だからといって、その結果が主観的かというと、そうではありません。主観的か客観的かという、2値的な判断が下せるほど単純な世界ではないからです。逆にそうは言っても、だめな実測図は、やはり歴然と駄目なのです。この辺のところは、まさに虚実皮膜の世界と言ったら良いでしょうか。そう簡単に、数学の立ち入る隙のないほど、複雑な世界なのです。
一部ですが、考古学者の中にも、計算機とその周辺機器による3次元形状の計測データがあれば、考古学者の視覚と手作業に基づく2次元の図面は不要になると見なす、極端な考えの人たちがいます。もちろん、完全に間違えています、しかし、そうした人たちの考えの、どこが決定的に間違っているのか、論理的に批判し、否定するためには、考古学者の視知覚と実測図との関係、それらと機械による3次元形状の計測データとの違いをきちんと対象化し、どちらも大切であり、それぞれ別の役割をもっている、ということを明晰に説明できなければなりません。アフォーダンス理論は、なぜ彼等が間違っているかということに対して明確な答えを用意してくれます。
以下、続く(かどうか不明)。
かなり前に書いた3次元計測をめぐる諸問題についての覚え書きです。