白兵戦と日本考古学-二つの誤解

岡安光彦

菅谷文則編 2008 『王権と武器と信仰』同成社, 570-576頁

はじめに

 日本考古学あるいは日本史学の世界に広く浸透している二つの誤解がある。一つは、日本の軍隊が古来 より白兵戦を得意とした、という神話を自明の事実とみなす誤解である。もう一つは、白兵戦の軍事的意義の曲解である。左右のイデオロギーに囚われ、白兵戦の意義を頭から否定したり、逆に過大に評価してしまう偏見である。

 白兵戦をめぐる二つの誤解は、古代国家成立期の研究においても顕著に認められ、軍事に関わる議論を徒に混乱させる原因となってきた。本論の目的は、考古学で広く信じられている白兵戦についての誤解を正し、古代の武力をめぐる研究をより建設的なものにすることにある。

1.引き継がれた誤解

 戦前から戦後にかけて、武器・武具・馬具に関する型式学的分析をもとに、武装システムに関する広範 な研究を展開して学界を主導した後藤守一氏は、古代日本の戦士集団が保持した戦闘ドクトリンについて、 『日本古代文化体系』「古墳文化」の項で次のように述べている(後藤 1938)。

 支那人の如きは、剣を専らとし、これを突き出すところの戦闘法を主としたものであるが、我が日本人は身を捨ててこそ浮ぶ瀬はあれで白兵を携げて敵陣中に突撃し、大上段に振りかぎして斬り込むを得意としたものであり、随って拳を護るために鍔の発達を見たのである。

 白兵戦を古代から続く、日本の軍事集団の伝統的戦法とみなす「白兵戦史観」の代表的な考え方が示されている。

 日本列島の戦士集団は、古墳時代以降、個人用の小型の持楯を戦闘に携行しないという、世界の他地域と異なる独特の戦闘ドクトリンを保有し続けた。この点にいちはやく気づいていた後藤氏は、著名な論文の一つである 「上古時代の楯」(後藤 1942)で次のように述べて、 同様の「白兵戦史観」を展開してい る。

 古墳文化前期に於てこそ剣と大刀とは相半ばするかも知れないが、中期を経て後期に至っては、その 用が殆ど絶え、奈良時代には兵杖として剣の用の絶えていると併せ考ふべきである。自分は剣が廃れて専 ら大刀を用ふるに至ったのを、目本人の突撃精神の発露に所因を求めるものである。身を捨ててこそ浮かぶ瀬はあれとか、皮を切らせて肉を斬るといふ言葉は近世のものであるかも知れないが、日本人は一歩を敵に近寄ってその効果を求めるものであり、一歩を退いて敵を突く戦法を潔しとしなかったのである。さればこそ、突く剣を排して切る大刀を求めたのであり、我が大刀なり叉太刀なりに 於て鍔の発達の著しいのも畢屹この突撃的精神の結果と見るべきである。剣をすてて大刀を執るとすれば、 剣よりも更に消極的攻撃効果を期する矛の用が我が国人の好尚に副はないのは当然の勢とせねばならぬし、 楯が早くも戦陣用として重き地位を占めなかったのも同じ理由にあるとしなければならない。

 こうした考え方について、春成秀爾氏は『考古学者はどう生きたか』で次のように指摘している(春成2003)。

 後藤のこれらの論文を参考にする研究者は現在もいるけれども、剣・矛・盾の衰退を突撃精神で説明するこの個所に気づく研究者はほとんどいない。しかし、後藤が本当に言いたかったのは、この個所であったろう。

 春成氏が指摘するように、後藤氏は日本の軍隊の戦闘ドクトリンが古代から現代まで連綿として白兵主義であったと考え、またそれを肯定的に評価した。このように、戦前の「白兵戦史観」を代表するのが後藤守一氏だったとすれば、戦後の「白兵戦史観」を 代表するのが松木武彦氏である。日本の軍隊が古代から白兵戦を得意としたと考える点では戦前の後藤氏 と同様である。たとえば『人はなぜ戦うのか』で、高句麗の広開土王と戦った五世紀始め頃の倭軍の様子を次のように描いている(松木 2001)。

 倭軍の中心は短甲と冑を身につけた重装備の歩兵部隊。 指揮官でさえ徒歩だ。 主力武器は長さ 80 セ ンチメートルから1メートルほどの大刀。ヤリ戦隊も少しいる。弓については詳しくわからないが、矢の先には導人してまもない、角棒状の軸をもった新型の鉄鏃がついている。ただし、弥生時代以来の技法で 作った、柳の葉のような薄っぺらい旧式鉄鏃をつけた矢もかなりある。この倭軍は、なによりも大刀を振 るって肉薄する接近戦を得意とし、それに誇りをもっているようだ。しかし、なにぶん重たい甲冑を身につけた歩兵部隊のこと。行動は遅い。

 「なによりも大刀を振るって肉薄する接近戦を得意とし、それに誇りをもっている」という記述に、松 木氏の「白兵戦史観」が如実に示されている。後藤氏と違うのは、次のように日本の軍隊の「白兵主義」 をきわめて否定的に捉える点だ。

 「倭車と高句麗軍とが対戦した結果は、だいたい察しがつく。おそらく、動きの遅い倭軍は高句麗の騎馬戦隊にほんろうされ、得意の接近戦にもちこむ前に、射程距離に優れた弩弓の格好の的となっただろう。 接近戦におよんでも、大刀隊、矛隊などに専門分化して戦術的に攻撃してくる高句麗軍に対し、倭軍がど こまで十分に応戦できたかは疑わしい。」

 松木氏は、 同書の中で、 こうした古墳時代以来の防御を忘れた「白兵主義」が、 1939 年のノモンハン事件や、その後の日本軍の戦争指導に歴史的に繋がっており、近代日本の軍隊の体質や戦争のありかたを大きく左右した、という考えを示している。

 このように、戦前の研究を代表する後藤氏も、戦後の研究を代表する松木氏も、日本の軍隊は極めて古い時代から「白兵主義」を戦闘ドクトリンとしてきたとみなす「白兵戦史観」を共有している。「白兵主義」に対する評価こそ正反対ではあるが、「白兵戦史観」に関しては、戦前から戦後へと引き継がれたと いってよい。

2.「白兵戦史観」の起源

 日本の軍人は古来から白兵戦を好んだという「白兵戦史観」は、大日本帝国陸軍の創作した新しい神話である。そもそも、白兵の語自体、1881(明治14)年に陸軍参謀部『五国対照兵語辞書』に仏語の arme blancheを訳すために作られた新しい造語である。白兵とは刃の付いた武器の意で、白兵をもって戦うのが白兵戦であり、戦闘の決着を専ら白兵戦に求める戦闘教義が「白兵主義」である。今日の軍事用語では、白兵戦は一般に近接戦闘(close combat)と呼ばれる(米国防総省1999)。 日本陸軍で「白兵主義」が明確になるのは比較的遅く、日露戦争後のことである。

 1909(明治42)年、 帝国陸軍は『歩兵操典』の改訂を行い、五項目の根本主義を打ち出した。その五番目に、それまでの火力 中心の考えを変更して、「歩兵は常に優秀なる射撃をもって敵に接近し、白兵をもって最後の決を与うべ ものなり」と定めたのが、日本軍における「白兵主義」の始まりである。

  操典の改訂に伴い全国の歩兵旅団長や連隊長が集められて、陸軍教育総監である大島久直大将が、戦闘における攻撃精神の重要性を説き次のように訓示した。

 我邦古来の戦闘法は、諸官の知らるるごとく、白兵主義にして、白兵使用は我国人の独特の妙技なり。故にますますこの長所を発揮して、白兵戦闘の熟達を図ることは、我国民の性格に適し、将来の戦闘に対する明 なれば、諸官はこの点について大いに力をつくさざること肝要なり。

 この訓示こそ「白兵戦史観」の起源に他ならない。戦前の後藤氏の「白兵戦史観」も、戦後の松木氏の「白兵戦史観」も、いずれもこの神話を忠実に踏襲したものだ。

 ここで誤解のないように述べておくが、「白兵主義」自体は今日でも軍事的に有効な戦闘教義である。松木氏は帝国陸軍の「白兵突撃戦法」を「精神力」頼みの非合理的思想として全面的に否定しているが、戦争とはもともと非合理的で理不尽なものである。その非合理に打ち勝つ精神力がなければ、戦闘には勝てない。

 松木氏が「白兵主義」の代表的な失敗例としたノモンハン事件についても、近年公開されたソ連側資料から、圧倒的な機械化部隊を有した赤軍側が、日本兵との近接戦闘で著しい打撃を受けたことが判明してり、大祖国戦争の英雄ジューコフ元帥も「生涯で一番の苦戦だった」と述べているほどだ。

 ノモンハン事件は、後藤守一氏が武器研究者の中では知らない者のない論文、「上古時代鉄鏃の年代研究」を発表した 1939 年に起きた戦闘である。 はるかに優勢な戦車部隊を有するソ連赤軍に対して、 当時の関東軍が無謀な戦いをしかけ、日本帝国陸軍が完膚無きまでに打ちのめされ、一方的な敗北に終わった戦闘とされている。

 しかし、ソ連崩壊後に当時の資料が表に出された結果、赤軍側も激しい消耗を強いられ、精神的な打撃を被ったことが分かってきた ( マクシム・コロミーエツ 2005)。 赤軍は 30,000 名の兵士を擁し、 砲200 門、 戦車 280 両余 、 化学戦車 18 両 、 装甲車 370 両、 その他圧倒的な数の車両で機械化された第 57特別軍団を中核とする兵力を投入した。当時の兵力配置図をみると、ハイラル付近の日本軍に対して圧倒的に優勢である。

 いっぽう日本軍は明らかに力の劣る旧式の戦車が 92 両あるのみで砲兵の火力も劣り、機械化も進んでいない第 7、 第 23 師団の 38,000 を含め、 最終的には総数 76,000 の歩兵が出動して対抗した。戦闘は日本側が戦死 8,632、負傷 9,087、ソ連側が戦死 9,703、負傷 15,952 で終わった。

 戦闘の勝利は目的を達成した側のものであり、犠牲者の多寡によって勝敗を判定することはできない。したがって、ノモンハンで日本陸軍が敗北したことに変わりはない。しかし、機動力に欠け、武器は貧弱という日本兵が善戦した要因の一つに、白兵戦能力の高さがあったことは間違いない。つまり「白兵主義」は軍事的に有効だったが、それだけでは戦闘にも戦争にも勝てなかったのである。

 戦前戦後の考古学における「白兵主義」の賛美や否定は、いずれも情緒的な価値判断に基づく妥当性に欠ける考えで ある。

3.考古学的な見直し

 以上の指摘に対して、松木氏からは次のような反論を受けるかもしれない。すなわち、古墳時代よりこのかた、日本列島の戦士集団が接近戦を好んだとする判断は、大島総監以来の「古来より白兵主義」という新しい神話を継承したからではない。武器・武具についての考古学的分析の結果から導かれた結論である、と。

 しかし、松木氏の論考には、氏がなぜ古墳時代以降の日本の戦士が近接戦を得意としたと判断したのか、その明確な根拠が示されていない。

 そこで松木氏の反論を待つ前に、古墳時代の武装システムが「白兵主義」を指向しているかどうか検討してみよう。まず比較の対象として、「白兵主義」をその戦闘教義とし、近接戦闘を得意としたことが歴史的に明らかな軍隊の武器や武具を見てみる。

 たとえば接近戦闘の文化的伝統を強固に有する軍隊の代表が古代ローマ軍である。ローマ兵の主要武器とされるグラディウスは 、 刃渡り 40 センチから 50 センチ程度しかない短剣である。 彼らは左手に楯、右手にこの短剣を持って、ギリシャ重装歩兵の密集長槍陣にも近接戦闘を挑み、打ち破っている。重装歩兵の槍襖をくぐり抜けて方形陣の中に入り込み、至近距離から短剣で敵を倒したのである。ちなみに、古代ローマ軍は、一般に弓兵部隊を随伴しないことでも知られる。

 いっぽう、ネルソン提督が率いたイギリス艦隊の兵卒達の武器も短い。艦対艦の砲撃戦の後は、短いカットラスやダガーを片手にした兵士たちが敵艦に乗り込んで近接戦闘を挑み、フランス艦隊を撃滅した。まさに「白兵主義」の軍隊の典型例である。

 このように「白兵主義」を自らの戦闘ドクトリンとする軍隊では、古代ローマ軍のグラディウスに示されるように、丈の短い武器が選択される傾向が強いと考えられる。敵味方が高密度に入り乱れる戦闘空間では、丈の長い兵器は活動の邪魔になり、周囲の味方を傷付ける可能性が高まるからであろう。

 それでは、こうした「白兵主義」的軍隊の武装と、日本の古墳時代の軍隊の武装との間に、何らかの類似性が認められるだろうか。答えは否である。古墳時代の主要な武器は、直刀と弓箭である。片手で持てる個人用の楯は携行しない。これらいずれの要素も、日本の古墳時代の軍隊が「白兵主義」を戦闘教義としたことを直接支持しない。

 五、六世紀の直刀は一般に長大で茎も長いため、戦闘時には両手で保持した可能性が高い。栃木県七廻り鏡塚古墳から出土した刀装具を見れば分かるように、多くの直刀はバットのように握るしかなく、後世の日本刀のような柔軟な太刀捌きは不可能であった。片手で持つことも可能だったが、遠心力を利用して振り回すような太刀捌きしかできず、近接戦闘に適していたかどうかは疑わしい。両手で持つにせよ、片手に持つせよ、直刀を振り回すためには、戦士一人一人が大きな戦闘空間を要したはずである。もちろん、

このような武器でも白兵戦は可能であるが、さりとて近接戦闘を得意としたという直接的な証拠にもならない。

 七世紀の直刀は、それまでに比べて大幅に短小化し、明らかに純粋な片手持ちの武器へと変化する。この変化は、馬具の出土量の爆発的な増加とシンクロしており、騎馬兵力の拡大と関係していた可能性が高いと考えられるが、やはりその変化を「白兵主義」と結びつけてその証拠と見ることは難しい。

 後藤氏や松木氏が唱えるように、古墳時代の日本の戦士集団が、近接戦闘を得意としたことを積極的に証明する直接的な根拠は、少なくとも現段階では全く発見できない。

4.弓馬の道

 古墳時代の考古資料から見えてくる当時の戦士集団の戦闘ドクトリンは、「白兵主義」などではなく、むしろ今日でいうところの「火力主義」、すなわち可能な限りアウトレンジから敵を叩くという思想である。

 近藤好和氏が『弓矢と刀剣 -中世合戦の実像』の中で繰り返し指摘しているように、中世までの実戦において、最も重要な役割を果たしたのは、刀剣よりも弓箭であった。この点については、戦前の著名な軍事史学者である佐藤堅司氏も同様の考えを示している。佐藤氏は、軍事的観点から日本史を五段階に区分し、それぞれ「弓箭本位時代」・「弓刀併用時代」・「刀槍併用時代」・「小銃本位時代」・「銃砲本位時代」とした。

佐藤氏は、神話の時代から平安初期までを「弓箭本位時代」と捉えたが、今日的に捉え直すと、古墳時代は「弓箭本位時代」の最初の段階に相当することになる。この「弓箭本位時代」という観点は、考古学的に見た古墳時代の武装システムと非常に適合的であることがわかる。古墳から出土する武器のうち、最も出土数の多いのが鉄鏃であり、それ以外の武器は持たない貧しい古墳からも、鉄鏃の出土例は多い。弓は、既に古墳時代において、最も一般的で主要な武器となっていた。

 先の七廻り鏡塚古墳からは、推定長2メートル前後の漆塗りの二張の長弓が出土している。さすがに合せ弓でこそないが、弓の腹側に一筋の樋を彫り入れ、握りを本弭側に置いた中世の弓に近い木弓で、和弓としてかなりの発達段階に達している。先に示したように、松木氏は日本と高句麗の戦いで、倭軍が「得意の接近戦にもちこむ前に、射程距離に優れた弩弓の格好の的となっただろ」と述べている。しかし、長弓の射程が弩弓のそれに劣るとするこの見解も、「白兵主義」と同様、全く根拠のない思い込みに過ぎない。

 時代も弓の構造も異なるので直接的対比はできないが、戦史を繙けば、長弓が弩弓に優った例はいくらでもある。たとえば、英仏百年戦争で、弩弓中心のフランス軍を圧倒したのは、イングランド長弓兵であった。

 さらに長弓は発射速度(一分間に何回発射できるか)の点でも、弩弓をはるかに凌駕している。和弓の射速を考えるのに 、 分かりやすい資料がある。 三十三間堂の通し矢である。貞享 3 年 (1688)、 紀伊藩の和佐大八郎が 13,053 本の矢を射て、そのうち 8132 本を射通し、これが現在でも最高記録となっている。

 距離は約 120m ある。これを 24 時間を通して平均 6.6 秒ごとに射続け、射通した確率 62%になる。もちろん古代や古墳時代の弓矢と、近世のそれとは同じものではないが、参考にはなる。三十三間堂の縁側は、庇の高さが 4.5 m・5.6 m、巾が 2.2 m、距離は 120 m。これを射通すには強力な弓が必要で、握部の厚さは 7 分位、 強度は 30kg 程度のものを使った。

 ちなみに、 和弓の強さは通常は初心者で 10kg程度、 達人で 30 kg程度であるが、 20kg前後の一般的な強度の弓なら、 毎分 10 射程度は十分に可能であろう。これは、 50 隻の矢を携行しても、 射続ければ 5 分で矢が尽きる発射速度で、 弩弓では到底及ばない。

 弩弓が確実に長弓に優る点があるとすれば、短期間の戦闘訓練を受ければ、経験の乏しい農民兵でもとりあえずは操作できるようになる点である。しかし、古墳時代の日本では広く長弓が普及しており、日常的に用いていたから、弩弓は基本的に必要はなかった。五世紀初頭の高句麗の弩弓と、同期の倭の長弓の射程距離を比較する材料はない。しかし、高句麗の弩弓部隊が、倭の長弓兵に息つく暇もなく矢を射込まれた可能性については、根拠をもって指摘することができるのである。

 倭、あるいはその後の日本の兵士は、個人用の持ち楯を携帯しない。後の律令期の軍団を見ても分かるように、数名が大型の置楯に身を隠して戦う。これは、倭の兵士が「白兵主義」を戦闘教義としていたのではなく、逆に「火力主義」を教義としていたことを示すと思われる。すなわち、侵攻して来る高句麗軍に対し、置楯で陣地構築を行い敵の攻撃を防御しつつ、可能な限りアウトレンジから敵を叩くという戦法をとっていた可能性が高いということである。

 戦前からそうと自覚されぬままで引き継がれた「白兵主義神話」に眼を曇らされず、素直に考古資料を分析すれば、松木氏の見解とは全く逆の結論が導かれることがわかる。古墳時代の日本の戦士集団は「白兵主義」ではなく、「弓箭本位」の「火力主義」をその戦闘教義として保持していた可能性が高い。六世紀末以降、とくに東国で顕著となる広範な馬具の普及と合わせて考えれば、既に推古朝の時代から、後世の「弓馬の道」へと連なる日本的武力のあり方が、早くもその形を整え始めていたにちがいない。

おわりに

 今日、日本の考古学でも、軍事や戦争の問題を正面から取り上げることはタブーでなくなりつつある。

 そうした空気の中で、軍事や戦争をめぐる意欲的論考を精力的に発表し、考古学的観点に基づく軍事史研究の牽引役となっているのが、本稿で批判の大半を引き受けることになった、松木武彦氏である。本論が松木氏に矛先を向けたのは、氏の著作が強い影響力を有することから、その内容に大きな誤りがあれば、将来の研究に大きな禍根を残すと危惧したからである。他意はないので、ご了承いただきいたい。

 考古学のみならず、社会一般の風潮として、軍事や戦争の問題は戦後長くタブー視されてきた。そのため、現代日本社会の構成員の大多数は、軍事や戦争に関する体系だった知識を学ぶ機会を剥奪されている。

 図書館に行っても、軍事知識に関する書籍は、いわゆる戦記物などを除けば、ほとんどない。ソ連が崩壊した冷戦終結後は、日本をとりまく安全保障環境が激変したこともあって、軍事関係の書籍も増えつつあるが、それでも質量ともにまだ十分ではない。

 その結果、我々考古学研究者あるいは日本史研究者は、基礎的な知識抜きに、国家形成期の軍事や戦争をあれこれ議論することを余儀なくされている。その結果、戦前から引きずってきた神話を、そうとは知らずに所与の常識として信じたまま、不用意に自らの言説の根拠としてしまうという事態を導き易い。

 日本の考古学界には、いまだ冷戦時代の思想的枠組みが残り、軍事や戦争に関する研究にもイデオロギーの束縛がある。しかし今後、研究を稔り多いものとしていくためには、そうした束縛から脱した自由な考えと、基礎的軍事知識と冷静な戦争観に基づく、新たな研究の枠組みを構築していくことが必要だと考える。二十世紀を代表する戦略思想家、リデルハートも「平和を欲する者は戦争を理解せよ」と記している。

参考文献

後藤守一 1938「古墳文化」『日本古代文化体系』第一巻、原始文化、誠文堂新光社

後藤守一 1942「上古時代の楯」『古代文化』第十三巻第四号

春成秀爾  2003「『日本精神』 の考古学 ー後藤守一」『考古学者はどう生きたかー考古学と社会』学生社

松木武彦 2001『人はなぜ戦うのかー考古学からみた戦争』講談社

松木武彦 2007『日本列島の戦争と初期国家形成』東京大学出版会

陸軍参謀本部 1881『五国対照兵学字書』

尚武会編 1909『改正歩兵操典』井上一書堂

佐藤堅司 1942『日本武学史』大東書館

近藤好和 1997『弓矢と刀剣ー中世合戦の実像』吉川弘文館

鈴木眞哉 2001『謎とき日本合戦史ー日本人はどう戦ってきたか』講談社

大和久震平 1974『七廻り鏡塚古墳』帝国地方行政学会

リデル・ハート/森沢亀鶴訳 1986『戦略論ー間接的アプローチ』原書房

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