古墳時代中期の馬具と馬匹 -生産と流通-

日本考古学協会第70回総会 発表要旨 (2004年5月23日発表)

岡安光彦

はじめに

 倭(古墳時代の日本列島の社会集団)の首長層にとって、馬や馬具はただ所有しているだけで所有者に社会的重み、権力、影響力を与える威信財〔K.ポランニー 1980〕として重要な意味を有した。倭の社会に、馬匹文化が本格的にその波及を開始するのは、5世紀に入ってからのことである。それは須恵器の生産開始の時期とほぼ重なる。ただし、その当初から馬や馬具が威信財として社会的に機能していたとは考えられない。というのは、馬や馬具が倭の社会で威信財として受容されるためには、それを求める首長層の需要を充たし得る生産体制の整備や、威信財としての社会的認知の形成が、その前提条件として必要だったはずだからである。

本論の目的は、倭の社会において、馬と馬具がいつ、どのような経緯でその威信財システムに組み込まれたのかという問題を、考古学的資料をもとに検討し、いくつかの仮説を示すことにある。

当然のことながら、日本列島への馬匹文化の波及をめぐる問題は、その源となった朝鮮半島や中国大陸東北部との関係抜きに論ずることはできない。幸いこの点については近年その研究が著しく進展しつつある。とくに白井克也〔2003a,b,c〕が進めた考古資料の日韓交差編年は重要な手がかりとなる。

本論では、まずはじめに、白井の研究成果をもとに、倭における威信財馬具の生産開始の時期を特定し、この期をもって古墳時代中期の馬具を大きく二段階に画期する。そして次に、はじめその秩序に混乱が認められる威信財馬具の階層性に、急速に一定の秩序が形成され、最後に威信財としての定型化を果たした製品が登場するまでの過程を明らかにする。

なお、本論は、筆者が先に七世紀研究会シンポジウムで行った鉄地金銅装馬具の消滅をめぐる発表と一対をなすものである〔岡安 2003〕。
1.白井の日韓交差編年
古墳時代中期の馬具の変化を知るには、その主たる供給源である朝鮮半島とくにその南部の馬具の変化に注目するのが近道である。先述したように、白井によって土器を基本指標とする諸資料の日韓交差編年が整理されており、それをもとに日韓の馬匹文化の交流について、より精密な年代観に基づく議論が可能となった。

白井は千賀久〔1988〕や柳昌煥〔1995〕等の研究をもとに鉄製輪鐙発生以前の輪鐙を3期区分し、日韓の古墳編年の平行関係の中に位置づけた(表1)。

白井の研究でとくに重要なのは、f字形鏡板付轡や剣菱形杏葉などをはじめとする馬具が日本列島に渡来し、その生産が開始されたと考えられる時期が、鐙IIIB期すなわちTK208型式後半期より前に遡り得ないことを指摘した点にある。

この指摘により、一群の馬具の渡来および生産の開始期が特定され、古墳時代中期の馬具と馬匹の生産・流通の画期が明確になった。
2.古墳時代中期の馬具の画期

大局的に見ると、古墳時代中期の馬具は、その変遷を二つの段階に区分できる。第一段階は朝鮮半島製と見られる馬具が散発的に副葬された時期、第二段階は倭で製作された可能性の高い馬具が数多く古墳に副葬され始めた時期である。以下、それぞれの段階を中期第Ⅰ期、Ⅱ期と呼んで考察を進める。
2.1.第Ⅰ期(5世紀前半〜中頃)

散発的に認められる例外的な資料を無視して大局的に判断すると、日本列島に馬やそれに騎乗するための馬具が組織的に導入され始めるのは5世紀に入ってからのことである。

この期の馬具とその出土のパターンには、次のように大きく二つの類型が認められる。

第一の類型は、兵庫県行者塚古墳・大阪府鞍塚古墳・滋賀県新開1号墳などの例に示されるように、有力首長の墳墓から出土する馬具に認められるもので、一般に鉄地金銅装などの豪華な製品によって馬具が構成される。この期には、既に新羅や伽耶などの社会では、馬具が威信財として首長層に流通していたが、それら朝鮮半島の馬具が、倭の社会にもたらされ、有力者の墳墓に副葬されたものであろう。

ただし、この種の馬具の絶対量は乏しく、ごく限られた一部の首長だけが入手できるものであり、倭の社会システムとしての威信財に組み込まれてはいなかったと考えられる。

第二の類型は、長野県物見塚古墳・同県高岡4号墳・群馬県剣崎長瀞西遺跡10号墳など、のちに馬匹生産地として発展する地域の、比較的小規模な墳墓や馬埋葬土壙から出土する馬具である。第一の類型に比べ、・轡など簡素な鉄製の馬具が副葬されるのが一般的である。また、先の物見塚例や高岡4号墳例などに示されるように、馬具の多くには、馬匹を日常的に使役していたことを物語る、度重なる修理痕がごくふつうに認められる。

該当する地域で、実用的な馬具の修理が行われていたことは間違いないが、同種の伽耶の馬具などに比べ、物見塚や高岡4号墳例のように、単に馬具の機能だけを充たすだけの造りの粗い不定形な製品が認められることなどから考えれば、既にこの段階で、鉄製の簡素な馬具の地方生産が開始されていたと見るのが妥当だろう。

このように、中期第Ⅰ期には既に、馬匹生産ないし流通の拠点が形成され始めた地域で、必要に応じて簡単な鉄製または木製の馬具が地方生産されていたことを示す資料を認めることができる。しかしいっぽう、舶載品の散発的な流通を除けば、有力首長層一般の威信財とするための馬具が、倭の社会で組織的に生産されていた形跡は認められない。つまり、倭の社会では、まず馬匹生産が開始された地域において、馬具の製作やその修理も開始された、とみなすことができる。

なお、群馬県剣崎長瀞10号墳の例にも示されるように、早い段階から馬匹生産拠点となる地域の多くには、朝鮮半島の文化の影響が強く及んでおり、初期の馬匹生産者の主体が、朝鮮半島から渡来したことを明確に示している。ただし断るまでのこともないが、彼らの墳墓は、一般に倭の地方墳墓群の一画を構成する場合が多く、しかも比較的劣位の地位を占める。朝鮮半島からこの期に渡来した馬匹生産集団は、平和裡に倭の地方社会に組み込まれたことが判る。騎馬民族日本征服説のような好戦的議論が成立する余地はない。
2.2.中期第Ⅱ期(5世紀後葉〜6世紀初頭)

この期に、倭の馬具に大きな変化が急速に進行した。もっとも重要な点は、新羅や伽耶には遅れたが、倭の社会において、威信財としての馬具が組織的に製作され、広範な首長層に供給される社会システムが成立した、ということである。

倭で独自の馬具生産が開始されたことは、兵庫県よせわ古墳出土の鈴付楕円形鏡板付轡、京都府穀塚古墳出土の五鈴杏葉などの鋳銅製馬具に示されるように、朝鮮半島には認められない、倭に固有の馬具が登場することによって、明確に裏付けられる。それら鋳銅製馬具の製作に、鏡作工人が関与したことは、既に繰り返し指摘されてきた。

また、f字形鏡板付轡と剣菱形杏葉は、いずれも朝鮮半島に起源を持つ意匠であるが、これも既に広く指摘されているように、この二つを組み合わせて一式とする馬具は、後代の逆輸出とみられる例外的な資料を除けば、日本列島以外では出土しない。したがって、この期のあと、長く倭の威信財馬具を代表することになった、f字形鏡板付轡と剣菱形杏葉の組合せは、この期に倭において成立したものと見るのが妥当である。

この期のf字形鏡板付轡や剣菱形杏葉、さらにそれらに伴う鉄地金銅装馬具の製作技術、あるいはその他の諸特徴は、朝鮮半島、とくに伽耶の馬具のそれと基本的に区別が困難である。

その理由については、該当する時期に、朝鮮半島から馬具作りの技術者が日本列島に渡来し、倭の首長層の好みに応じて従来のデザインをアレンジし、鉄地金銅装その他の馬具の製作を開始した結果と見るのが、最も単純で理解しやすい解釈である。

いっぽう、渡来馬具工人とは別に、倭の鏡工人あるいは武具工人も、馬具製作に動員されたと見られる。前者は従来の鋳銅技術をもとに鈴付馬具を、後者は鍛鉄あるいは鉄地金銅装の技術をもとに、鉄製f字形鏡板付轡や同じく楕円形鏡板付轡などの製作を開始した。

以上のような倭の馬具に認められる大きく激しい変化は、白井の日韓交差編年の成果を利用すると、須恵器の型式に換算してTK208からTK23型式にかけての時期、すなわち西暦475年前後に起きた出来事であると特定することが可能になる。
3.変化の理由

古墳時代中期における倭の馬匹文化に二つの画期をもたらした変化は、なぜもたらされたのだろうか。
3.1.第一の変化

須恵器の生産開始と軌を一にしていることにも示されるように、倭への馬匹文化の組織的流入がなぜ開始されたかという問題は、古墳時代中期がなぜ開始されたかという時期区分の問題に直接繋がる。

日本列島においては戦争によに領土の統合が進まず、前方後円墳など特定形態の墳墓の造営を通した祖霊祭祀の共有を重要な要件とする武力抗争回避秩序が列島諸集団の間に形成され、後の畿内をその初期値としての相対的な中心地とする比較的安定した物流ネットワークが形成され、古墳時代前期社会が成立した。前期社会の安定的経済空間には循環的因果関係に基づく中心地への富の集積が促進されて「畿内」に富と権力が急速に集中し、物流ネットワークの一元化も進んで武力抗争を経ずに領土の統合が実現し古墳時代中期社会が成立した〔岡安 1999,2000〕。

馬匹文化の組織的導入は、以上のプロセスを経て「畿内」に形成された政治センターが開始した動きである。古墳時代中期の開始とともに、朝鮮半島の馬匹生産集団が渡来して各地に生産拠点が形成され始めるが、それらの地域がその後長く古墳時代の馬匹生産の拠点として成長し、しかも伊那谷に代表的に示されるように、それらの地域が長く明確な「畿内」の支援を受けていたことを見れば、それは明らかである。

考古資料は、馬や馬具が威信財として重要な社会システムとなる半世紀前に、倭の政治センターが明確で非常に長期的な展望に立って、馬匹文化の導入を開始したことを示す。
3.2.第二の変化

第一の変化にも、倭の内的発展のみならず、東北アジア諸勢力の動向が関係しているであろうが、第二の変化は、さらに劇的な極東全域を揺るがした歴史的事件に関わっている可能性がきわめて強い。というのも、第二の急激な変化の起きた年代は、西暦475年前後と推定されるからである。それは高句麗が漢城を陥落させ、百済がいったん壊滅した年に当たる。

第二の変化の特徴に、伽耶のものではない、新羅のものでもない属性を有する馬具が登場することが指摘できる。たとえば、別造の壺を有する引手を持つ轡が、その顕著な例の一つである。この種の轡の引手壺では、小円環に直交して瓠形の部品が造り付けられた構造となっている。今日のような溶接技術のない時代に、どのようにしてそうした直交構造を実現したのか不明であるが(現在X線による分析を進めている)、きわめて高度な鍛鉄技術に基づくことは間違いない。この、伽耶にも、新羅にも認められなかった鍛鉄技術が突然出現し、直ちに倭の馬具作りにも取り入れられる。こうした現象を、どのように解釈すべきか。

最も単純明解な答えは「百済の一時的滅亡によるその技術の周辺諸地域への流出」である。百済の領域と考えられている清州新鳳洞古墳群では、多数の・轡が出土しているが、最も新しいものの中に、この種の引手を有した轡が認められる。

このように中期第Ⅱ期における倭の馬具の急激な変化の最大の契機は百済社会の壊滅による技術(工人)の流出と考えられるが、そうした国際的契機とおそらく連動した倭の社会の変化も強く関係していた。

つまり、倭の社会では、この期に何故か急激に馬具が威信財として求められるようになり、直ちに首長層に普及したからである。その劇的な需要の拡大に応じるため、倭の政治センターは、朝鮮半島から馬具工人を招請し、さらに鏡工人や武具工人をも生産ラインに投入して、一気に威信財馬具の量産体制を構築した。いっぽう、それが可能な各地域でも、そうした馬具を模倣した製品が製作され始め、かなり無秩序な様相を呈するようになる。
4.威信財馬具の定型化と稲荷山古墳の馬具

馬や馬具をめぐる倭の社会的意識は、西暦475年頃を境に大きく変化し、威信財馬具が社会システムとして成立した。しかし、当初はその階層性の秩序に混乱が見られ、システムとして形成途上の様相を示す。

たとえば、f字形鏡板付轡と剣菱形杏葉の組合せは、倭に固有の馬具セットとして古墳時代後期後半まで長く継承され、倭の首長層にとって馬具すなわち「f字と剣菱の組合せ」という意識があったのではないかと思わせるような時期が続くことになるが、直ちにそのような意識が形成されたわけではない。

「f字と剣菱の組合せ」は第Ⅱ期の変化の当初から製作されていたが(ごく初期には朝鮮半島でも製作されていた可能性がある)、威信財馬具を代表するものではなく、さまざまな組合せが試みられた。また「f字と剣菱の組合せ」は最終的に鉄地金銅製品に統一されていくが、当初はこのルールが確立されておらず、各地で勝手に鉄地金銅装のそれを模倣した鉄製品が製作され、在地に流通した。東京亀塚古墳出土品のような定形的な馬具が出現するまで、そうした無秩序な状態が続く。

威信財馬具成立期の器種のセット関係をめぐる試行錯誤の最終段階を飾るのが稲荷山古墳出土の馬具である。鉄地金銅、鋳銅、木工、皮革、その他ほとんど全ての種類の生産ラインが総動員されているという意味において、当時の威信財馬具システムのおそらく最高位を占める馬具として製作されたと見られる。しかし、この段階ではまだf字形鏡板付轡に三鈴杏葉を組み合わせている。東日本の首長の鈴への嗜好に合わせて製作された結果であろう。三鈴杏葉としては最初期の型式で、音響効果を高めるために鈴を大きくした結果、その意匠が三鈴化した可能性がある。

なお、稲荷山古墳出土馬具の年代を、その三鈴杏葉をもってMT15型式並行と捉える説もあるが、それにさしたる根拠はない。TK47以前の馬形埴輪に三鈴杏葉が伴う例もあり、また埼玉県岡部町四十塚古墳資料のような例もあるから、そうした意見は現在では排除できる。

稲荷山古墳の馬具と相前後して、先述した東京亀塚古墳出土品のような定型化した「f字と剣菱の組合せ」が登場し、鉄製のそれはこの組合せから排除されていく。いっぽう一段階下位の馬具である内彎楕円形鏡板付轡では、鉄地金銅装と鉄製のそれが混在し、鉄製品が数的に卓越するする。つまり、f字形‐内彎楕円形、鉄地金銅‐鉄製という威信財馬具の階層秩序が明確になる‐そして古墳時代後期が始まる。
まとめ

本論では、日本列島における馬匹文化の受容をめぐって以下の仮説を示した。

  1. 倭の馬匹文化受容には二つの段階があり、いずれも倭の政治センターが関与していた。
  2. その第二段階を特徴付ける威信財馬具の成立は、西暦475年の蓋鹵王殺害とその後の混乱に伴う百済の技術流出に連動した動きである。
  3. f字形鏡板付轡と剣菱形杏葉の組み合わせは、渡来工人を中心に倭の工房で製作されはじめた倭固有の馬具である。
  4. 威信財馬具は倭の中央でも地方でも製作された。その階層秩序には、とくに初期において乱れがあるが、次第に威信財システムとしての製作秩序が形成され、最終的に定形的な鉄地金銅装f字形鏡板付轡・剣菱形杏葉馬具が成立した。
  5. 埼玉県稲荷山古墳出土の馬具はTK47型式期(前半)に倭の政治センターで東日本の有力首長のために製作された、高位の威信財馬具である。

謝辞
本論執筆をめぐっては、白石太一郎、杉山晋作、永嶋正春、西本豊弘、小野正敏、内山敏行、鈴木一有、桃崎祐輔、その他の方々に温かいご指導ご助言を賜った。また本発表要旨の掲載については、考古学協会事務局にご面倒をおかけした。記して感謝の意を表したい。
参考文献

* K.ポランニー,玉野井芳郎他訳 1980『人間の経済Ⅰ』岩波書店,207-208
* 白井克也 2003a「馬具と短甲による日韓交差編年‐日韓古墳の並行関係と暦年代‐」土曜考古第27号,土曜考古こん休会研究会,85-114
* 白井克也 2003b「日本における高霊地域伽耶土器の出土傾向‐日韓古墳の並行関係と暦年代‐」『熊本古墳研究』創刊号,熊本古墳研究会,81-102
* 白井克也 2003c「新羅土器の型式・分布変化と年代観‐日韓古墳の並行関係と暦年代‐」『朝鮮古代研究』第4号,朝鮮古代研究刊行会,1-42
* 岡安光彦 1999「古墳時代物流ネットワークモデルに関する試論」『日本考古学協会第65回総会研究発表要旨』
* 岡安光彦 2000「初期国家形成期の物流ネットワーク」『日本考古学協会第66回総会研究発表要旨』,119-122
* 岡安光彦 2003「馬具生産と流通の諸画期」『七世紀研究会シンポジウム‐武器生産と流通の諸画期』,七世紀研究会,1-9
* 千賀久 1988「日本出土初期馬具の系譜」『橿原考古学研究所論集 第9』,吉川弘文館,17-67
* 柳昌煥 1995「伽耶古墳出土鐙に対する研究」『韓国考古学報』33,韓国考古学会,91-147
* 桃崎祐輔 1999「日本列島における騎馬文化の受容と拡散‐殺馬儀礼と初期馬具の拡散にみる慕容鮮卑・朝鮮三国伽耶の影響」『第46回埋蔵文化財研究集会渡来人の受容と展開‐5世紀における社会的変化の具体相(2)‐』,第46回埋蔵文化財研究集会実行委員会,373-420
* 加古川市教育委員会 1997『行者塚古墳 発掘調査慨報』,加古川市文化財調査報告書15
* 内山敏行 1996「’96特別展 古墳時代の轡と杏葉の変遷」『黄金に魅せられた倭人たち』,島根県立八雲立つ風土記の丘資料館,42-47
* 小野山節 1979「鐘形装飾付馬具とその分布」『MUSEUM』第339号,東京国立博物館
* 小野山節 1983「花形杏葉と光背」『MUSEUM』第383号,東京国立博物館,16-28

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