馬具生産と流通の諸画期

7世紀研究会 第1回シンポジウム発表要旨 (2004年5月31日発表)

岡安光彦

1 はじめに

鉄地金銅装馬具は、7世紀中頃まで大量に生産され、各地の古墳に盛んに副葬された。ところがその後、副葬品の中から急に姿を消してしまう。この期に相前後して生産が開始される金銅製の毛彫り馬具と違い、住居址などからも出土しなくなる。このように鉄地金銅装馬具が急に消えてしまう、あるいは消えてしまうように見えるのはなぜか。

ほぼ同じ時期、鉄製の鉸具造轡(とくに鏡板)には顕著な規格化が進み、九州から東北に至る群集墳に良く似た標準化された製品が盛んに副葬された。ところが次の段階になると、鉄地金銅装馬具の消滅と機を同じくして副葬数が減少し、規格が崩れてしまう。これはなぜか。

本論の主要な狙いは、これら二つの問題を提起することにある。

なお、本論で示す時期区分は内山敏行の考えに拠る(内山1996)。すなわち、古墳時代中期を7段階、後期と終末期をそれぞれ4段階に画期する。中期は大阪平野に古市・百舌古墳群が現れてから須恵器のTK47型式の時期まで、後期はMT15型式の時期から前方後円墳が消滅するTK209まで、終末期は土器様式の飛鳥I新様相から飛鳥Vまでである。

2 鉄地金銅装馬具の消滅

鉄地金銅装馬具は、基本的に終末期1段階で最終段階を迎える(図1・2)。

後期4段階から、鉄地金銅装馬具には二つの変化の方向が顕著になる。一つは各部の構造が急速に間略化される傾向であり、もう一つは鏡板や杏葉が多様な外形や文様を採用する点である。このため、鉄地金銅装馬具は、単純化しつつ多様化するという相矛盾した変化を同時に示しながら終末期1段階に至る。

一般に鉄地金銅装の鏡板では、銜との連結部の外側に被せた覆いが、後期中葉に最も発達した大型半球状の覆いから、次第に小さな丸い凸部へと変化する。終末期1段階には、低平になって凸部のないもの、あってもほとんど目立たないものが一般的となる。また後期4段階後半から既に一部で認められる動きであるが、鏡板と杏葉の鈎金具が省略され、並列する2個の鋲で面繋や尻繋のベルトに直接連結されるのが一般的になる。

雲珠・辻金具では、法量が小型化し、型式や大きさが統一され、腹部の凹線や花形座は消えて、鉢の肩部に稜を持つ「半球状有稜鉢」が一般的になる(宮代1996)。

先述したように、この期の鏡板や杏葉は外形や文様において複雑で多様な様相を呈するように見えるが、それらの構造や連結方法は基本的に共通で単純である。先述したように、雲珠・辻金具の型式がほとんど一種類に統一されてしまうことも、多様に見えて単純という、この期の鉄地金銅装馬具の特徴を端的に示す。

ただし、立聞が矩形で鋲を2個並列してベルトに繋ぐ鏡板・杏葉に、「半球状有稜鉢」に半円形脚・方形脚交互8脚配置1鋲留の雲珠を組み合わせるものが最も一般的であるが、立聞が円形で鋲を縦に2個並べて留める鏡板・杏葉、3鋲留半円形脚を有する雲珠・辻金具もあり、単純とはいえ、必ずしも金銅装馬具のデザインが完全に一元化され統一されているわけではない点にも注意が必要である。

鉄地金銅装馬具は、次の終末期2段階以降になると確実な出土例を認めるのが非常に難しくなる。終末期1段階で基本的にその生産と墳墓への副葬を終えたと見てよいであろう。

3 鉄製馬具の規格化

古墳に副葬された馬具の中でも、とくに数の多いのが鉄製の環状鏡板付轡である。環状鏡板付轡には多くのバリエーションがあるが、大型矩形立聞造環状鏡板付轡と鉸具造環状鏡板付轡が最も一般的で、地域差が比較的乏しく、全国各地の古墳から出土する。

大型矩形立聞は後期1段階から、・具造立聞は後期2段階後半に出現するが、いずれも新しくなるにしたがって鏡板本体が次第に小型化していく傾向がある(岡安1984、85)。

とくに 具造の轡では、後期4段階から鏡板の形状と法量を一定に揃えた(鏡板全高が71〜72cm)、規格化された製品が製作されるようになり、終末期1段階にはその製作数が非常に増えて、宮崎県から岩手県に及ぶ広範囲の地域に出土例が認められるようになる(図3・5)。

ところが、終末期2段階以降になると、鉸具造轡はより小型化するとともに、出土数が急速に減少する。資料が少なくなるためその規格性を判断するのは難しくなるが、数に比べて法量のバラツキが大きくなることから、終末期1段階のような明確な法量上の規格は廃れると判断される。

津野仁によれば、・具造轡は奈良時代以降も製作されており、一部の地域で集落内の住居址から出土するという(本資料津野論文参照)。ただし、それらの法量にはバラツキが大きい。


4 馬具の生産と流通の画期

ここで終末期1段階に至るまでの古墳時代における馬具の生産と流通の発展過程を簡単に整理しておく。
4.1 中期前半(中期1〜4段階)

単発的な事例を別にすれば、兵庫県行者塚古墳から出土した3点の鉄製の轡の出現をもって、日本列島への馬匹文化の本格的な導入の開始期と見るのが、現時点では確実である。

この時点において既に 有力首長層にとって共通の威信財(1980 ポランニー)として認識されていたかどうかは不明である。

ウマの生産は、中期前半段階から伊那谷などの一部の生産拠点で開始されていたとみてよいだろう。早ければ前期後半まで遡る可能性もある(西本 1996)。

馬匹生産地では、当初から日常用の馬具を自家生産していたと考えられる。それらは、長野県物見塚古墳出土品(図6)の鑣轡ように、鉄以外は基本的に在地で調達できる有機質の素材を用いた、簡素な馬具であったにちがいない(内山・岡安1996)。
4.2 中期後半(中期5〜7段階)

中期後半に入ると、半島にあった馬具の生産ラインの一部が列島に移動し、f字型鏡板付轡と剣菱形杏葉のセットをはじめ、内彎楕円形鏡板付轡などの鉄地金銅装馬具あるいは鉄製馬具の生産を開始する。また、それらの外形を模倣した鋳銅製の馬具の生産ラインも整備される。こうして倭独自の馬具の発達が始まり、威信財として各地の有力首長層に供給されるようになる。

馬匹生産地の日常使用の馬具としては、引き続き鑣轡などの簡素な馬具が在地製作されていたと見られる。鑣轡は構造が単純で、形状の違いなどからその時期や製作地などを精密に言い当てるのは現時点では非常に難しいであろう。
4.3 後期1段階

後期に入ると、ウマと馬具の生産、流通の体制が大きく変化し発展する。

半島から再び中期とは異なる系統の馬具生産ラインが移動してきて、列島で稼働を始める。この結果、楕円形鏡板付轡や杏葉などの新たな系列の鉄地金銅装馬具、楕円形鏡板付轡などの新しいタイプの鉄製馬具が生産されるようになり、列島各地に大量に供給され始める。

ウマの供給量も増える。伊那谷などそれまでの馬匹生産拠点に加えて、列島各地にウマの飼育が広まり一般化する。この結果、「中央」の影響を受けつつ簡素な鉄製馬具を在地生産する地域が現れ始めて、似て非なる多様な馬具が認められるようになる。
4.4 後期2〜4段階

後期2〜3段階にかけて、鉄地金銅装馬具をめぐっては二つの動きが同時に進行した。一つは、後期1段階の流れを引き継ぎ、伝統的な馬具の諸系列が段階的で秩序正しい型式学的変化を遂げつつ、次第に消滅していくという動きである。内彎楕円形鏡板付轡は1段階まで、鈴杏葉は2段階まで、f字型鏡板付轡は3段階までというように、型式学的変化を遂げながら順次姿を消す。

一つは、次々に舶載される新しいタイプの馬具の登場と、それを模倣する新しい系列や型式の出現するという動きである。鐘形鏡板・杏葉、棘葉形杏葉、九陽紋鏡板・杏葉など、さまざまな系列の馬具の製作が開始され、複数の生産ラインが、それぞれ不規則に新しい意匠を模倣して錯綜した変化を遂げる。この動きが先の秩序正しい正しい動きを完全に飲み込んで後期4段階に至る。

鉄製馬具では、後期2段階から素環状兵庫鎖連結鏡板付轡に代わって列島全域で大型矩形立聞造の轡が主流となり、同時に輪鐙に代わって壺鐙が一般化する。

後期4段階、とくにその後半に入ると、鉄地金銅装馬具の簡略化が顕著になり始め、終末期1段階の動きが準備される。また鉸具造轡でも京都府湯船坂2号墳例に示されるように、法量が統一された規格品が現れ始め、鉄製の実用的馬具でも同様の動きが起きる。したがって、馬具の変化に則して画期すれば、後期4段階後半と終末期1段階とを合わせて、一つの独立した段階とする方が妥当であるかもしれない。


5 まとめと考察

鉄地金銅装馬具は、中期後半に最初の生産ラインが組まれた当初から、「中央」のコントロール下で生産され、各地の首長層に供給された威信財であったと考えられる。

後期初頭と後期中葉には、それぞれ生産ラインが大幅に追加される時期があり、後期後半には複数の生産ラインが稼働し、各ラインは次々に舶載される馬具を模倣しつつ、多様な製品群を供給した。しかし後期末になると生産ラインの整理が始まる。終末期1段階には、完全ではないがほぼ生産体系が一元化され、形や文様は多様に見えるが、実は単純な共通様式に規格統一された製品が大量生産され、地方の群集墳被葬者層にまで広く供給された。ところが、供給が一巡すると、全生産ラインが突然停止し、供給が完全に途絶え、200年に及ぶ鉄地金銅装馬具の生産と流通の幕が閉じる。

いっぽう、鉄製の馬具は、当初からその生産をめぐって「中央」によるコントロールの形跡は認めにくい。

後期1段階における素環状兵庫鎖連結鏡板付轡の導入、後期2段階以降における大型矩形立聞造環状鏡板付轡の普及などは「中央」の影響が小さくないが、これは「統制」によるものというより、「中央」の馬具工房で生産された製品が各地に供給された結果、それが各地における馬具生産に間接的に影響を与えたと見た方がよいであろう。鉄製馬具の生産をめぐる「中央」と「地方」のこうした関係は、須恵器の生産に通じるところがあると思われる(内山敏行の指摘による)。

ただし、鉄製の馬具にも明確に「中央」によるコントロールが認められるものがある。後期4段階後半に出現し、終末期1段階に量産された鉸具造轡である。前述したように、その鏡板は鍛造品であるにも関わらず全高が71〜72㎜に統一され、極めて規格性が強い。宮崎県から岩手県まで、各地の群集墳から出土し、住居址から出土することも少なくない。「中央」が何らかの「意志」をもって列島全域に規格品を普及させたと考えるのが自然であろう。

とはいえ、それら規格品の鏡板の法量と形状はよく揃っているが、その鍛造方法についてX線などを用いて子細に検討して見ると(現在解析の途中で確実ではないが)、必ずしも統一された技法に拠っていない。つまり、外見的には形状・法量ともに統一規格を満たしているが、その製造工程が異なる可能性がある。

また、該当期の鉸具造の轡は、規格化されているとはいえ、それは鏡板のみで、銜や引手にはバリエーションが多い。引手や銜のバリエーションは、使用による磨耗や破損のため、この種の轡では部品の補修や補填が頻繁になされることが多いということにも原因があるので注意せねばならないが、当初からさまざまな引手を採用しているものは少なからず認められる。

このことから、終末期1段階の規格化された・具造の轡は、以前筆者が述べたように「中央」で生産されて一元的に供給されたと見るよりも、見本となる製品(今回のシンポジウムでいう「様(ためし)」)が現物支給され、一定の技術力のある地方の工房で各個に生産された可能性の方が強いのではないかと考えられる。またその際、鏡板の仕様については制約があったが、他の部品の仕様については各工房の判断に委ねられた可能性が強いと思われる。

以上のように、後期4段階後半から終末期1段階にかけて、鉄地金銅装馬具についても、鉄製の馬具についても、「中央」が著しくその関与を強めた。そして鉄地金銅装馬具については、その直後に生産が廃絶し、鉄製馬具に関しては再度地方に統制が委ねられた。ほどなく勃発する壬申の乱に、文献に記されたように甲斐や信濃などの東日本の騎兵が動員されたのが事実とすれば、彼らはこうした大きな変化の後の馬具を装備していたと思われる。もし簡素な鉄製の馬具ならば、京都大学が所蔵する山梨県八代郡の無名墳から出土したような・具造轡を、装飾的な馬具とすれば仏教意匠をあしらった毛彫馬具を用いていたにちがいない。

なお、このあと8世紀に入ると新しいタイプの馬具の生産が開始される。とくに岩手県房の沢古墳群出土の・具造轡のように、東北地方と大陸との直接的交流を示唆する資料の登場は注目される。


参考文献

1. 内山敏行 1996「古墳時代の轡と杏葉の変遷」『黄金に魅せられた倭人たち』島根県立八雲立つ風土記の丘資料館 pp.42-47.
2. 内山敏行 2003「古墳時代の諸段階と馬具・甲冑」『後期古墳の諸段階』(第8回東北・関東前方後円墳研究会シンポジウム発表要旨資料) pp.43-58.
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4. 岡安光彦 1984「いわゆる『素環の轡』について」『日本古代文化研究』創刊号 古墳文化研究会 pp.95-120.
5. 岡安光彦 1985「環状鏡板付轡の規格と多変量解析」『日本古代文化研究』2 古墳文化研究会 pp.9-20.
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10. 桃崎祐輔 2002「笊内37号横穴墓出土馬具から復原される馬装について」『研究紀要』2001 福島県文化財センター白河館 白河 pp.36-74.
11. 桃崎祐輔 2002「笊内37号横穴墓出土馬具から復原される馬装について」『研究紀要』2001 福島県文化財センター白河館 白河 pp.36-74.
12. 岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター編 1998『房の沢IV遺跡発掘調査報告書』岩手県文化振興事業団埋蔵文化財調査報告書 第287集 岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター 盛岡

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